無理解なまま、差別主義と批判し糾弾するのはいかがな物か、とさんざん書きましたが 実を取るにはプランAもBもCもあるにこした事はないよね、と思うので、「批判」や「糾弾」自体を単純に否定した訳ではありません。 「糾弾」も「相互理解」も、アプローチのテクニックとしてはどちらも取れた方がいいだろうし。 無理解なまま自身の感想でしかない糾弾をしてもいいと思うことと、理解した上でテクニックとして糾弾を行う、と言うのは、私はもう全然違う物だと思っているので、前者は否定しましたけれども。