>同性間ではその制度を運用することに反対すると言ってきた場合、それを差別的であるって言うしか無いような……。
テクニックとして「差別的だ」と糾弾する場合もありますし、実際それで問題が解決したかのようにみえることがありますけれど、同時にその方法は別の差別を産む危険が大いにある、と言う事を理解する必要はあるんじゃないでしょうか。
そう言う糾弾を、私は真っ当だとは思いません。
>それを差別的であるって言うしか無い
というのは、社会通念に照らし合わせると差別的であるから差別的とジャッジせざる得ない、と言う風に理解したんですけど、正しいでしょうか。だとしたら、私はそういうジャッジはただの個人の感想でしかないと思うし、それを正当化して糾弾していい、と言うのは、変だと思います。
>また差別社会であると糾弾することは人権侵害ではなく批判なのでは?
その批判は、人権侵害にも繋がるものですよ、と言うお話をしていて、それが無自覚であるとしたら怖い、と言う話です。実際、無自覚である人を見て、その感想でもあります。
宗教上においても、法治国家においてもある部分に対して「差別」というものは現実存在しています。それをどうにかしよう、と言う時に、別の差別を産む事でそれが解消される方法は果たして是なのか、と思います。
実際にそうならないように注意している当事者も沢山いるのではないでしょうか。
だから、「同性婚制度の自由を認めてほしい」「設けてほしい」と言ってる訳ですよね。それは、相手の社会や教義が「差別的だから」という批判ではないですよね。
>キリスト教社会にいるLGBTは「治療」されようとしていて
「治療するべきような事ではない」「治療が義務づけられるような事でもない」ということに関しては、まず、医学的に無理解という問題もありますよね。その無理解を是正しようと、LGBTの団体(支援団体含む)は働きかけを行っているだろうし、教義の別解釈というアプローチも行われているのではないでしょうか。つまり、相互理解を促している。
「キリスト教が、何故反対するのか」と言う部分に目を向けてアプローチをしている人は沢山いると思います。私は、そう言うやり方を支持します、と言うお話です。
