イギリスのEU離脱のニュースに関する記事が面白い。
一般的な日本人にとっては「はた迷惑でしかない(皆のこと考えたら我慢しろよ!)」という話でしかないんですが、「我々は沈むだろう。けれどそこから上がるのさ!」という地べたで生きる人の覚悟を聞くと、頭の悪いぼくは「いいぞ、もっとやれ!(個人あっての社会だろ!)」という気持ちになる。
昨日、福島県の飯館村のドキュメンタリーがやっていて見ていたんですが、「全体で見て間違いなく正しい解に蹂躙されることへの嫌悪感や疑問」というのは、おそらく日本だけでなく世界中の多くの人が感じていることなのだ。
合理的に見て、原発再稼働は資源・資本の効率的な活用、地元経済や雇用への貢献、廃炉技術の開発においても必要悪だと思う人がいる一方で、将来を見据えて日本は原発事故や廃炉専門の国際的な人材を養成した方が道義的にも経済的にも正しくて、廃炉や燃料処理まで考慮に入れると原発は圧倒的に高コストと考える人がいるのと同じだ。
と机上の理論ではお互いの意見を寛容できるんだけれども、実際の現場になると、現実の生活や人生がリスクにさらされるので、どちらかの意見が蹂躙される、または懐柔策を通して片方の意見がまかり通ることになるのだ。これは全然遠い世界の話ではなく、わりに身近なところでも行なわれている「いわゆる政治的なプロセス」という奴かもしれない。
わりに人間の中には「はた迷惑でしかない(皆のこと考えたら我慢しろよ!)」、「いいぞ、もっとやれ!(個人あっての社会だろ!)」が両方あるんだよなあと思う。まあ、ぼくはわりに「いいぞ、もっとやれ!」と思う人なので、さらに苦労が増すタイプです。
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