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雪杯×すのう!のことを語る

【歌舞伎NEXT「阿弖流為」@新橋演舞場のネタバレ上等!感想】

最大のネタバレ+言わずもがなな超個人的感想をくどくど書きます
あまりにネタバレなので、だいぶ下げます

このお話の一番の問題は、「田村麻呂には帝が見えているのか?」だと思うんです。(私にとってはですけど)
阿弖流為には帝は見えない、衣装だけが抜け殻のように玉座に座らされているように見えるんですね。もちろん観客にもそう見えます。御霊御前はそれを「(阿弖流為は)日の本の民でないから玉体が見えないのだ」って言うんだけど、その時点では私は「存在しない帝を使って人心を把握しているんだ」と思ったのです。でも、田村麻呂は最後に帝に向かって「いいですね」って言うのですよね。あの時、御簾は開かれていて、観客には帝は見えないわけです。でも、田村麻呂には見えている?
それは、「日の本の民(という選ばれた民族)には本当に見えるのだ(本当にいる)」ということではなく、「日の本の神の思想」なんだと思うのです。
アラハバキの神は嫉妬し、呪い、人を殺そうとする、いわば人格のある神でした。八百万の神というのは、そうなのでしょう。けれど、大和の作られた神は空っぽなんだ…ということです。器なんですね。だから機能するのだと御霊御前も言っていた、御霊御前はそのシステムを理解して利用しているんですね。
まさに、今読んでいる(とても苦労して)本の内容と重なりあっているのです。
阿弖流為は違う神様のいる国、違うシステムの中で生きていた。けど、田村麻呂はどうしたって日の本の民なのです。義でも大儀でも抜かなかった刀を、阿弖流為とただ一個人として戦う時には抜いた田村麻呂でも、帝が空っぽだということはわからない。見えてしまう。どれほど個人としての決意や思想があっても、このシステムからは抜け出せないんだなぁと。
それまでは、宮中のあくどい権謀術数や、家というしがらみ、部下への思いなどに絡み取られて自由になれないとだけ思っていたのだけど(それだけなら、阿弖流為も同じだもんねぇ)、田村麻呂と阿弖流為にはもっと深い、目に見えない、だけじゃなく田村麻呂には決してわからない違いがあるんだなぁって思いました。
それが「大和と呼ばれるもの」「日本と呼ばれるもの」…なのかなぁ…って思いました。で、ずしんときております。