もったいぶるわけではないのですが、あのおかんの口調と笑い声なしにこの気味の悪さが伝わるかどうか自信がない。
旅館の話
「昔パパと一緒に子どもたちを連れて香川に行ったのよ。あの人いつも計画も何もなしに急に言い出すでしょ。もうすっかり暗くなったのに泊まるところがなくってね、山の中を車でどんどんどんどん進んでいったのよ。そしたら林の右手が崖になってて、その下の方に旅館があったの。大きな旅館が。電気も点いててね。それで子どもたちを車に残して二人で斜面を降りて行ったのよ。ほんとに大きな旅館だったの。ところがお玄関に入ってみたら誰もいないのよ。煌々と明かりが点いているのに」
くっくっく、と笑うママン。
「それでね、パパが『すみません』って大声で呼んでみたのよ。そしたらね、私たちの目の前を人が、ツツツツツツッーって横切ったの!黙ーってよ! ん? そうね、お玄関があるでしょ、そこの奥に襖があって、その向こうがきっと部屋になっていたんでしょうね。そこをね、ツツツツツツッーって」
引き笑いが止まらないママン。
「それでもう二人ともすぐに車に引き返したの。大急ぎで、振り返らずに黙ーって。それきり二度とそのことには触れなかった。人って本当に恐いときにはそのことを話せなくなるのね。もう黙ーって車に戻ったのよ。その晩泊まったところ? さあ、どうしたんだったかな。もう覚えてないけど。フフフ!あーれは恐かったわよー」
いまもこの話を書くと心底ぞっとして鳥肌が立つんですが、どこがどう恐いのかを説明するのは難しいです。
