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florentine(磯崎愛)のことを語る

ジャッキー・デリダの墓
LE TOMBEAU DE JACKIE DERRIDA
目次
〈友〉なるデリダ
断片、あるいはデリダの「ように」
絵画に〈声〉が来るとき――アトラン「カヒナ」(1958年)
祈りと無神論――『名を救う』
リス=オランジス、2004年8月8日
名のおかげで
   *
〈裸〉の師
盲者のオリエント
怪物のような「かのように」――日本における政治上の嘘の歴史のために
デリダにおけるヘーゲル――『弔鐘』における〈晩餐〉の記号論を中心に
レジスタンスを愛すること――『精神分析の抵抗』
葬送不可能なもの――『マルクスの亡霊たち』
来たるべき民主主義への挨拶――『ならず者たち』
戦略、スタイル、情動――ジャン=リュック・ナンシーへの三つの問い
   *
解体と政治
「死せる叡智」と「生ける狂気」――〈さまよえる星〉の比較文学
神の裁きからの演劇の〈誕生〉――『バルコン』から『オルダリ』へ
明かしえぬ共犯性――ジュネをめぐる二つの集いのこと
http://www.msz.co.jp/book/detail/07829.html
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目次みるだけで、なんかもう、こみあげるかんじがある
いつか、「墓」のはなしはかきたいなあ、という想いがある。ちょびっと、「視界樹の枝先を揺らす」で触れてはいるのだけど。
もちろんこないだのシャトーブリアンのそれを読んだときから、ということだけでなく(ちなみによく知られているようにジュネも大好きな作家だよね、シャトーブリアン)、そもそもわたしのなかに葬送というか喪の儀式というかそういうものに対する何かがあるんだろうなあ。祖父母の墓とかアメリカフランスイタリアで見た墓とかについて、というか、あれだよ、芸術の一様式としての墓について、か(ぱのふすきーv)。
とにもかくにも、『弔鐘』が日本語で読みたいです、はい。一頁にも満たない文章をフランス語でみた(みた!)けど、あれは、無理。学生時代のじぶんのフランス語能力がいま戻ってきたとしても無理(今のほうが、あのころより語学力はなくともかしこくなったとは思うけどそういうレベルじゃなかった)。
でもきっと、ほんとは、この『夢のように~』はあの本を読んでからのほうがいいんだろうな、ていうのはずっと思ってる。