「 この『菅原伝授手習鑑』という作品、名作の誉れが高いのはうなずけます。これは私の考えですが、名作には出口や入口がいくつかあるからです。主人公という点ひとつを取っても、いま述べてきたように、この浄瑠璃には出口や入口が幾つかあることがわかります。 これは破れ目です。物語の破れ目です。物語の結界が破れているのです。破れた物語は必ずや手袋を裏返すように裏返されます。全体的に見れば、奇妙なトポロジーです。そこから何が、誰が出たり入ったりするのでしょう。それは選り取り見取りです。 怨霊であったり、忠義であったり、裏切りであったり、役人批判であったり、梅や桜の咲く季節であったり、殺される子供、あるいは寺子屋のかわいらしくも出来の悪い悪ガキであったり、武士の妻たちの覚悟と悲しみであったり、権力というものの馬鹿ばかしさであったり、超自然的な幻想であったり、荒唐無稽であったり、身も蓋もないリアリズムであったり、虚であったり、実であったり、虚実、同時に両方一緒であったり、いろいろです。これは芸なのでしょうか。そうは言っても、このことは芸術以前の事柄のようにも思えるではないですか。
これが芸であるのは、まず第一にまさしくこれが浄瑠璃であるからだと私は思っています。今回の公演は竹本住大夫師の引退公演でもあったので、名人の語りを聞くことができて、余計にそれがはっきりとわかりました。 住大夫さんの、何と言うか、繊細な声、小さくかすれるような、消え入るような、物語の向こうにはもう何も無いかのような声、そして突然、堰を切ったように絞り出される最後のダミ声(失礼なことを言ってしまいました)に聞き入りました。浄瑠璃だからというだけではなく、何か独特の、たぶん名人にしかできない(どう言えばいいのだろう)節回し、ふと、そこから外れるように、はぐらかすように、不意にどこか別の所を向くかのような、揺れるような、震えるような、もはや音程(私は物書きだけではなく音楽もやっているので、音程などという無粋な言葉を使う悪癖をお許し願いたい)をつかむことができない言葉の語尾の破れのようなもの……。 住大夫さんの声自体が破れていたのです。とはいえ、あえて言うなら、この声はさきほどの物語の破れ目から出て来たのではないように思えました。そうではなくて、実際、この声の破れから、なんと物語自体がぞろぞろと出て来ていたのです。 」
http://wwwsv1.ntj.jac.go.jp/bunraku/diary/26/diary57.html
鈴木氏の文章、ほんとにほんとに大好きだ~
