ああそうか
わたし自分が歌詠みじゃないってなるのは
基準が定家卿あたりにあるから、か
新古今の超絶技巧が好きなんだよ(西行さんも好きだけど、あのひとのはそのどもりっぷりがすきで
ほんとは内親王の超絶技巧と冷酷と熱情を真似たいのだ
でなければ俊成パパのおおらかさを支える圧倒的な技巧とか(結婚するなら俊成パパがいいですw
あなたそんなに技術が好きですかって問われたら
だって、藝術アートって技術や技巧の意味ですよ、と古めかしいことを言い返すことにしているw
あ、それで
はなしもどして
定家卿は政治下手じゃないかって問われるかもしらんので一応答えておくと
「歌」は政治だけど
定家卿の歌は、「藝術」なのだ、わたしにいわせなくともきっと
古くから日本で歌というのは時空間、「場」や「ひと」というものに支配されてきた
消息や相聞、わかりやすくいうと応答、つまり挨拶、もっというとご機嫌伺いなのだ(だから呪術とも関係する)
ただし、定家卿の歌は「独立」している
屹立、というか
うまれてはじめて新古今よんだときに、文字通り定家卿の歌だけ「浮いて」みえたんだけど
あのひとのは視覚と聴覚の混交、動画みたいになってるってことはなんとなしにそのときにもわかったんだけど
あの「浮きっぷり」がよくわからなくて
それは彼の歌だけ異質だからだと、わたしに理解させてくれたのが堀田さんの本で
それはすごくすごく、ありがたかった(このへんの勘所が悪いので、わたしは歌詠みじゃない、ともいえる テクストを読むだけじゃやっぱり歌詠みじゃないのだ、小説家はある程度それでもやれないことはないけど、ようするに作品が孤絶していてもOKだから ただ歌人は返歌できないと、つまり周りが見えないと駄目だよね、歌会ってものがあるから わたしに圧倒的に足らない能力w)
わたしの言葉でいうと、
定家卿だけエベレストのてっぺんにいて、空気が薄い処でもなにくわぬ顔してる感じなの、で、なんでみんなそこにいないのか、じぶんだけそこにいるのか、そのこと自体の理不尽さに憤ってる、みたいなw
俊成パパや内親王なんかは途中のキャンプに常駐してるかんじ、下へもおりてこない(このひとたち駄作ってない気がする、ぴんとこない歌ってやつ)、なんとなればてっぺんにのぼることも可能
西行さんなんかはぐるぐる上下関係なくどこでも動き回れる、もしかすると煙になって山のうえまでだっていける
(定家卿の秀歌より西行さんのほうが愛されるのはそのへんだとおもう、わたしも西行さん大好きだし ある意味じゃ、対等以上になれたのはこのひとだけかも、だ 超絶凄すぎる政治家だし、な 西行さんは!)
上皇は担がれてあがれるし、自力でもイケる力はあるのだけどそこにはいないよね、ラサみたいな高い都市にいる
わかりやすく、そしてみなが納得する歌を詠む、政治家だから(このひとも、あんまり変な歌なかった気がする)
とかいうふうにわたしはおもってるんだけど
(そんなに歌論とかよんでないからしらないけどw)
