あーなるほど、そういう「意識の変遷」ていうのは、あるのかもしれないですね
データ、あーーーーうーーーー
データ・・・(思考そのものがフリーズしてる・・・
そうか、データ、か
別の言葉でいうと素材、とかでしょうかね?
わたしはやっぱり旧いタイプの人間だ、ておもいました今しみじみと(笑)
たしかに情報、では、ある、のですけどね
だからこそ、その情報をどう扱うのか、ていうことにかかってくるのが、いわゆる一般的な西洋美術史のひとつの定説だか常識だかではあるかとおもいます
そうなんです、今日の講演でも「モナ・リザ(でいいとおもいます、ジョコンダ夫人だという説も、いわゆる本当の定説なのかどうかアヤシイのがレオ様研究のむずかしさなので)」の背景の件は言及されました
意味があるものは省いちゃいけないっておもうのです
(そして、いま、美術史のほうではいわゆるそういう「見方」自体の見直しが始まっています)
よって、
千切ること、つまり批評や研究というのは腑分けの一種だとおもっているところもあるので「データ」として扱うこと自体に対しては否定的立場ではないのですが、美術館は絵を見る場所であるという前提を覆してしまっているような気がするんですよね
小説を一章切り抜くと文体はそこで把握できますが、筋はそれだとわからないですものね、まして主題などは絶対にわからない
とはいえ順番ということなら、よほど特殊な作品ではない限り、小説は前から読むものと決まってます
(例外はあげられますけど、まあ、そういうのは「例外」です)
ただし、キャラに注目するか、筋が大事か、文体に意識をむけるかとか、それはそれぞれです(書く側もw
絵画も、ひとによって見る場所が違うはずです
ああいうトリミングをするひとは、そのこと自体を否定してしまっているんですよ
わたしは、そういうことにもやっぱり異を唱えたいんです
個、というものを殺してしまっている
もちろん、宗教画なら宗教的主題をメインに見る、そういう「見方」はありますが、
くりかえしますが、
いま美術史のほうではそのこと自体への見直しがはいってる時代なんですよ
なのに逆に、ああいうのはやっぱり、わたし、納得できないんですよねええええ
と、
聴いてもらえるとおもうとぐちったー全開ですみません(汗
