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ココスキ☆東灘のことを語る

うささんが褒めてくださったのはちゃんと、そこはわかってまする

で、
こっから、なんてじぶんは黒髪君ソックリなんだろー!? て告白が延々と続きそうで恥ずかしいのでやめて(やだよ、実生活まであんな、あんな、だって、「うじうじくん」て読者様に命名されるようなひと、でも、言うとそれ、黒髪君の台詞以外の何ものでもナイってことになっちゃうんだよ、はははははw)
(あー、でも、うささん以外のほとんどのひとには、これだけじゃ、わかんないよな)
(うーん、じゃあしょうがない)

マジレスしまくると、
古典をライヴァルにすると決めてはいるけれど、
とても、とても苦しいんです
負け戦だから

しかも、現代日本で硬質で重厚なものはほとんど受け入れられません
そして、それらはすでに、古典作家たちが素晴らしい手腕を存分に発揮しているところのものです
突飛なものや変わったものであるのならば、まだ余地があります
もっと正確にいうと、少々変わった風体に見せかけた古風な作品は売れるし受ける
けれどわたしは、そういう器用な書き手ではない

とはいえ、
負け戦だとわかっていてもしなきゃならないことはあるし、
小説というのは本来的に負け戦みたいなものなのでw

わたしは、じぶんに小説の「才能」があるとおもったことは一度もありませんが、
その「素養」だけはちゃんとある人間だとおもっています
いや、マジで

さりながら、
小説はそれなりにしぶといけれど、恐らくその黄金期はやはり19世紀であっただろうし、
21世紀はもう、「物語」が大挙して押し寄せてくる時代で、
まして、その発祥の地ではないこの国で、
目新しいジャンルとしてそれなりの地位は築いたけれど、
本質的に根付いたとはおもえないこの場所で、
今後どれほど愛されるだろう、ということについては、かなりのところ懐疑的ではあります

まあもちろん、物語も小説も、いまわたしが便宜的にかきわけているだけのはなし、というふうに言われたらそうなのですが

わたしのなかでも、この問題は実のところ未消化なのかもしれません
いま、たまたま三島と辻邦生さんを読んでいて、ふたりとも、そのあたりをしっかりと意識して書いたひとでした
そしてまた、「日本語の問題」、さらには「行動する」という点についても

わたしはじぶんの書くものが「伝統」という点では常に正統派であることを疑わないし、
小説の言語としての日本語は、外からきたものとの相克によって鍛え上げられたものである、という意識も捨てていません
けれど、自らが書き手であると名乗るひとたちのなかにあってさえも、「小説」を書くという行為が小説そのものについて考えることである、という考えはさほど支持されないようです
となると、わたしのようなタイプの書き手をめぐる状況は輝かしいものとはけっして言えません

小説というのは「孤絶」と非常に相性がいいので、それもまた悪いものではないかもしれませんが