「悪意なき殺人者と憎悪なき被害者の住む楽園」*
――ヒロシマ、チェルノブイリ、フクシマ――
ジャン=ピエール・デュピュイ
http://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/blog/Dupuy_japanese_2011.pdf
「アンダースとアーレントは、まったく悪意が存在しなくても悪はおこないうるというスキャンダル、まったく悪意がなくても途方もない責任が生じうるという点を指し示していました。われわれが持つ〈道徳〉という範疇は、悪が想像可能な範囲を超え出てしまうと、悪を描写したり裁いたりできなくなってしまいます。そして、次のように述べる以外になくなってしまうのです。「大きな犯罪は自然を害い、そのまったくために地球全体が報復を叫ぶ。悪は自然の調和を見だし、罰のみがその調和を回復することができる」vと。ヨーロッパのユダヤ人たちは、「ホロコースト」という語の代わりに「ショアー」という語を用いるようになりました。「ショアー」は、自然のカタストロフィーという意味であり、とりわけ津波という意味ですが、この変更は、自分たちが被害者であったり責任者であったりする事柄が思考の域を超えてしまうと、悪=厄災を自然のものとしたくなる。そうした誘惑を示しているのです。」
「善が悪に転じるという悲劇的な逆転、工業社会に対する偉大な批判者であったイヴァン・イリイチ(1926年-2002年)は、その逆転を反生産性....と呼んでいました。彼は、今日、最も大きな脅威は悪人から来るのではなく、善.を.目指す工業界......から来ると主張しました。悪意のある人々よりも、国際原子力機関(IAEA)のように、「全世界の平和、健康、繁栄」を保障する使命をもった組織こそ恐れるべきだというわけです。反原発派の人々は、戦うからには敵を〈きわめて腹黒い人々〉として描き出す必要があると考えていますが、その態度がかえって批判の力を弱めていることに気づいていません。われわれを脅かす巨大組織の人々が有能かつ誠実な人々であることの方がはるかに深刻なことなのです。その人々は、なぜ自分たちが非難されるのか理解できないわけですから。」
あちらの世界における善と美のちかしさについては説明はいらないだろう
美しさやかっこよさや便利さ等のもつ「危うさ」ということについても、トミノ御大はくりかえし語ってきているわけなのだけど(ていうか、御大はアレントに感銘を受けてるんですよね)
しかし御大、あれは褒めてるらしい
「本音」だから、なのかなあ?
