「(略)自分に対してしか正直になれない。話し始めると、まわりの状況によって裏切られる。自分一人に話しているときは、私は自分を感じない。時間がないし、自分に作り話をきかせるまでもない。自分に嘘をつくには年をとりすぎている。それに、私がパレスチナ人たちと一緒にいることを受け入れるのは、孤独のなかでのことだ。ライラにウイといい、君と一緒に出発しようと言うときではない。そういうときではない。それは私が一人でいて、自分だけで決心するときなんだ。そしてそのときは、自分に嘘をついていないと思う」
「私の考えでは、家族というものはおそらく最初の犯罪の構成単位で、もっとも罪深いものだ」
ジャン・ジュネ『公然たる敵』より
「少なくとも中世以来、西洋社会は、告白というものを、それから真理の産出が期待されている重要な儀式の一つに組み入れていた。一二一五年のラテラーノ公会議による改悛の秘蹟の規則化、それに続く告解の技術の発展、刑事裁判の手続きにおける告発に重点を置く方式の後退、有罪性の試錬(誓言、[探湯のような]神明裁判、神の裁き)の消滅と訊問ならびに調査の方法の発展、犯罪の追及において行政府の占める役割の増大――しかもそれは私人間の調停という方策を犠牲にして実現された――、異端審問裁判所の設置、これらすべては、世俗的ならびに宗教的権力の次元において、告白に中心的な役割を与えることに寄与してきた。そもそも「告白(aveu)」という語ならびにこの語がさし示してきた法律的機能の変遷は、それ自体において特徴的である。他者によってある人間に与えられる、身分、本性、価値の保証としての「告白[告解]」から、ある人間による、自分自身の行為と思考の認知としての「自白[告解]」へと移ったのである。個人としての人間は長いこと、他の人間達に保証を求め、また他者との絆を顕示することで、(家族、忠義、庇護などの関係がそれだが)自己の存在を認識してきた。ところが、彼が自分自身について語ることができるか語ることを余儀なくされている事実の言説によって、彼を他人が認識することになった。真実の告白は、権力による個人の形成という社会的手続きの核心に登場していったのである。
……告白は、西洋世界においては、真理を産み出すための技術のうち、最も高く評価されるものとなっていった。(9)それ以来、我々の社会は、異常なほど告白を好む社会になったのである。告白はその効力を遥か遠くまで広めることになった。裁判において、医学において、教育において、家族関係において、愛の関係において、もっとも日常的次元から最も厳かな儀式までである。……人は告白をする――というか、告白をするように強いられているのだ。告白が自発的でないか、あるいは何らかの内的要請によって強制されていない場合には、告白は奪い取られる。人は告白を魂のなかから狩り出し、肉体から奪い去る。中世以来、拷問は告白には影のようにつきまとい、告白が力を失いそうになると、それを支えてやる黒い双子なのである。(10)最も優しい愛情がそうであるように、権力の最も血腥いものも、告白を必要としている。西洋世界における人間は告白の獣となった。」(Foucault [1976=1977:273-274=1978:58-59])
http://www.arsvi.com/w/fm05.htm#04
「私たちは死んでいくものの疲労については想像が及ぶが、そのはてしない消耗には、読む側の消耗なしにはつきあっていけない。
しかし、マイノリティとしての死者の発信する言葉とは、消耗の言語に他ならないのではないか」
「私たちはいつのまにか死者は静かに死んでいくものだと思いこむようになっている。しかし、これは生きているマジョリティの独断と偏見にすぎないのではないだろうか。マイノリティの言葉を遮断して生きていこうという衛生学がはたらいて、私たちは死者に猿轡をかけてしまっているだけではないか」
「私たちには、血なまぐさい言葉、消耗させる言葉、倒錯的な言葉に対して耳を塞ごうとする傾向が――これはあくまでも傾向なのであるが――ある。
しかし、この傾向になんとかして逆らっていかなければならない」
「文学の疲弊をよそに、言語はいまなお疲れ知らずでいるが、それならば鍛えられるだけ言語を鍛え上げようではないか。マイノリティの声を「雑音」として「破壊的音楽」としてしか聴こうとしない傾向に対する対抗的な傾向を準備するものとして、文学はこれからまだまだ言語にすがりつづけていくしかないのだから」
西成彦『エクストラテリトリアル 移動文学論Ⅱ』(作品社)
「幾分なりとも美を意識した書物を書く者は、声の亡霊をおのれに引き寄せてしまう。そして自分ではその声を発することができない」(パスカル・キニャール『音楽のレッスン』より
