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florentine(磯崎愛)のことを語る

言語と生命
檜垣立哉
「ミシェル・フーコーが設定した生権力や生政治学が、当初ここまでの射程をもつにいたるとは、本人は想像もしなかったことだろう。だが概念とは、有効であればあるほど、「発明者」の思惑を越えて拡散していくものである。生権力は、もはやそれが何を指し示しているのかさえ規定しがたいものであるが、同時に二一世紀の思考の構図を描くときには不可欠の操作概念になったともいえる。それが今後においても有効な概念でありつづけるかどうかは誰にもわからない。しかし、哲学的思考が言語や意識を越えてその基盤に視線を向けるとき、そして政治や倫理という事態のなかに、言語を越えたいかんともしたがい領域がはいりこむことが明らかになったとき、言語と生命が決定的にからみあうこの位相が重要でないはずはない。それは調和的な生命の姿を描きはしない。生命を原理的にとらえきれない言語が、何とかその姿を押さえこもうとする困難さこそが、そこで露呈されるべきなのだ。

 生命の倫理学や政治的思考は、自らこうしたパラドックス的状況のただなかにいることからあまりにも眼を背けすぎてきた。日本における生命倫理的言説に積極的に介入してきた幾人かの論者たちが、前世紀の「生命倫理」の不徹底性を自覚しつつ、生権力や生政治学にその存在論的な検討の材料を求めつつあることは(たとえば、金森修『〈生政治〉の哲学』(ミネルヴァ書房、二〇一〇年)、小松美彦『生権力の歴史――脳死・尊厳死・人間の尊厳をめぐって』(青土社、二〇一二年))そこから抜けだす予兆であるようにもみえる。たんなる倫理を越えて、生命の存在論やその根源的な政治性を問う探究は、今後おそらく、予想もつかない多様な分野において、さまざまに結実していくだろう。逆にそこでは、フーコーの意図にそったかぎりでの「生権力」というタームは、もはや消滅しても構わないものとなるはずである。」
http://www.iwanami.co.jp/shiso/1066/kotoba.html
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うー
カンギレムまだよんでない、
けど、とりあえずまたフーコーを読み始めることにする
というかわたし、間に合うのか間に合うのか!? 4月10日だぞ?
いや、まあでも、なんならほんと、11月の文フリまでイベントでるのやめてもいいのだな
そうしたら、更新にだけエネルギーを振り向けられる
(わたしの当初の予定では、だって、これ1月に終わってたんだもん、まだ6割くらいしか書けてないし><
アンソロのおはなしもいただいてるし、無理はしない、かなあ?
いやでも、アンソロのおはなしいただいてるから出たいってのもあるのだよあるのだよ) 
4月の文フリふたつをどうするのか、まだ悩んでる
コミケは今のところ一般でいって本かってからのほうがよさげ、かなあ、とかおもってる