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florentine(磯崎愛)のことを語る

れっすん:水没した国の朝の風景の一部

 由美は玄関を出て肩を落とす。水路を横切る灰色の浮き板を見るたびに、ため息が出てしまう。あそこで、おばあちゃんは怪我をした。昨日台風がきて、祖母は由美を迎えにいこうと外に出てすべって転んだのだ。 そのせいもあって、由美は今日、蛍光オレンジのライフベストを母親に着せられた。こんなものは、このあたりでは一年生でもないかぎり身につけない。由美はもう、六年生だ。間違って水路におちたりしない。これでは、誕生日にもらったばかりのロングシューズをはいていこうと思ったのに色があわない。極薄ラバーの、ナイキとプッチのダブルネームの薄紫のシューズはかわいくて、浮き板のうえでもちっともスリップしない。頬をふくらましても、母はとりあわなかった。しかも、気をつけてね、とテレビを見ながら顔もむけずに言った。姉の留美が端役で出ている、札幌の陸上部の少女が主人公のドラマ。結婚前は長野にいた母は揺れない歩道や革靴が懐かしいらしい。水がくさい道が歩きづらいと言って、母は買い物にも出たがらない。そのくせ、姉の撮影の送り迎えにはいそいそと真新しいボートで出かけていく。由美は高校生なったらすぐに免許をとるつもりだ。
 由美の家は高台にあって、遠くには海が見える。晴れた日はほんとうにいいところだと思う。でも、風の強い日はなんとなくそらおそろしい。海の色は暗く沈んで濁っているのに、高波はいつもよりずっと明るく、光って見えるくらいに白い。一昨年、へたな護岸工事のせいでこの街の一部はさらにまた海に侵食されてしまっていた。海より手前には、鉛色の水面に白や橙のいびつな三角がいくつも並んでいる。「シテ・フィオリナ」という、沈んだままの建売住宅街の残骸だった。階段をおりながら目をこらすと、数が減っていた。再開発もできないまま、子供がボートで怪我をしたために取り壊しが始まっているのだ。せっかくの遊び場だったのに、由美がそう思ったとき安っぽいスズランの匂いが鼻についた。紺のミドルシューズが踏んだぬめっとして平らな浮き板は、今日のような天気だと波に揺られていつもより上下する。そのつなぎめから真っ白な泡が流れるのが見えた。由美はうつむいて、唇をそっと噛む。最新式のエコ洗濯機を買うくせに、母親は水を汚す洗剤を使う。
 バス停はすぐだ。由美は雨粒のついたメガネで、黄土色の波をたてて水路をやってくるバスを見つめた。旧式だ。もう一度、ハンカチでメガネをぬぐっても間違いない。あの型は、クーラーがきかない。しかも、長年しみついた機械油と濡れた雨具のラバーにおいがまじりあって最低なバスだ。いつもボートやバイクで通うひともバスを利用するようで知らない顔があり、混雑している。由美は列の後ろに並び、バスがくるまでふやけた肌と汗のにおいをかがないようにガーゼのハンカチで口と鼻を覆って、傘の先でこつこつと浮き板をたたきつづけた。
2005年