ずっと、善悪がわからないと言い続けていて
そりゃ、わたしにはわからないよな、と思いながら
ジャン・ピエール・デュピュイ『ツナミの小形而上学』岩波書店 読了
ギュンター・アンダースの名前を知れて、というか、『ヒロシマわが罪と罰―原爆パイロットの苦悩の手紙 』(ちくま文庫)の[ギュンター・アンデルスだとわかってよかった
気になってたの、おもいだした
その他、あー、そこがこことこうなるのか、ていうのがじぶんのなかでだんだんつながってきたのでありがたい
そして、きっと、このへんはラファティの「仕事」に近いよなあ、とおもいながら、あの百科全書的な、神学に詳しく、非常に知的な作家だったラファティを思い浮かべていた
「人類」てでてきたらもう、さ、SFよね? SFのシゴトよね??
そうだ、あと
神義論とか、人義論とか、さ
例の、ほんとうにどうにも許しがたい「天罰」発言の来たる「理由」と、それが見過ごされてしまった(? いやでも、選挙にとおったていうのはつまり、そうよね?)「理由」なども考え合わせて
よんでよかった
あと、
ちょうど今、アベラールとエロイーズ関係もよんでて、
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「次に、アベラールが、人間の行為の善悪が行為それ自体で決まるのではなく、その行為をなすについて、行為者を動かした意図いかんによる、というintentioの第一義性に着目した点である。『第八書簡』の中で、彼は、オウィディウスの「我らは常に禁ぜられたものを志し、否まれたものを欲求する」との詩句を引用したあと、「だから如何なる食物も魂を汚さない。汚すのは禁ぜられた食物への欲望なのである。身体が物質的汚物によってのみ汚されるように、魂は霊的事柄によってのみ汚される。身体についてどんなことが起ころうとも、魂がそれに同意していない限り、何の恐れることもない。また肉体的に清浄であろうとも、精神が悪しき意志によって汚されているのであれば、何の自慢にもならない。魂の生死は係ってただ心のうちにある」と説く。
この論理は、当然に、犯した罪の償いにおける意志の重要性へと結びつく。『倫理学、もしくは汝自らを知れ』の中で、罪そのものよりは罪人を、すなわち罪人の意志の働きを重視し、悔悛とは具体的な苦痛と罰ではなく、心の痛悔が問題であるゆえんを彼は強調する。このような考え方が、罪と罰と悔悟という中世になじみのテーマに、新しい光をあてたことは重要であり、こののち例えば、ベルールの描いた、トリスタンと隠者オグランとのやりとりにも、アベラール的思考が反映することとなる」
新倉俊一『ヨーロッパ中世人の世界』(ちくま学芸文庫)より
http://h.hatena.ne.jp/florentine/9234076066366127580
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なんというか、なにをどういっていいのかわからないのだけど、ここで「責任」という問題とかが重なってくるのだろうけれど(このへんはヨナスとかいうひとのをよむのがいいのかな、と)、ともかく
ともかく、
『夢のように、おりてくるもの』でここまでのところへはいくことがむずかしいというか、いや、半分、片足つっこんではいるのだけど、でも、わたしのほうで(ストーリーの展開っていうのもあるので)そこまでいけなくとも、いけなくとも! 爪痕のひとつくらいは、感じさせられるような描きかたが出来たらイイ
災厄や供犠、暴力、罪と罰等の問題というのはずっと考えてきていることで、『夢詩壷』と『遍愛日記』のほうがもっと見えやすい形であらわれてはいるのかもだけど(なにせ選ばれしものと供犠と世界の終末シーンでとまってるからw)、けれどどのはなしもけっきょくわたしが描いてるのでな、ははははは
もっと上手に歌がうたえるようになりたいです!!!(が、音痴なのだよ><
