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florentine(磯崎愛)のことを語る

そして、昨年わたしはそこに命をはってるひとの講演(http://h.hatena.ne.jp/florentine/243608759789604693)を聴いてきて、
命はってるって、え? て感じかもだけど、まじで、きったはったというか、
歴史と切り結ぶ、他の研究者との争い、美の判断者(とあえてかく)としての名誉と、なんかもうよくわけのわからないものをかけた戦いの一端(べつに喧嘩したとかじゃないよ、いや、ある種の威信、国家戦争的なところもないわけじゃないけど(美術というのにはどうしてもそのへん絡む)を感じたし、
そういうのとはべつに、「美意識」(わたし自身へのそれとちがって、ここで使うことへの躊躇いは一切ない!)の凄まじいまでの研鑽とか相克とか、死線を潜り抜ける的な緊張感があるのはわかったのだ)を垣間見て、むちゃくちゃに感銘をうけたので(いえ、そういうのは本のなかではたくさん知ってたんですが、それを日常してるひとに会う、ていうのが初めてだった)
カタログレゾネつくるのは、あれはもう、なんていうか、歴史に本当に線を引く、ていうものなんだなあ、と
わたしはなにかに線を引くことなんてできるのかっていつも問うけど
ほとんど誰かを殺すようにして、つまり「作家」、ここならプッサンという作家の個別の命を、その固有の生命や存在といったものを、美術史家は斬る、殺す、または活かす、生かす、ということにおいて「線」を引くのだな、と
そこでプッサンというひとが生まれ変わったり少し死んだりするのだな、と
もちろん、そういう判断についても西洋美術史側の、ロゴス中心主義的なもの、パターナリスム的なもの、植民地支配的なもの等への「反省」だか「問い直し」みたいなのはとうぜんある
(ちょくせつてきにはかんけいないけど、ディディ=ユベルマンあたりのシゴトは、そういうもののひとつ)
なんだけど、
あれはあれで、わたしには感ずるところがあったのだ

じぶんにあれほどの「智慧」とか「感受性」とか「賢明さ」、もちろん「知識」もろもろがなくても、
とにかくも、「作品」や「作家」と真剣に向き合うことしかないんだな、一対一の関係だな、ていうのがまたあらためて深くじぶんのものになって、よかったです

とはいえ、
べつに、誰もかれもがこうしたらいいとも思わない、というか、思えない
それはけっこうめんどくさいことで、ただでさえ生きるのは大変なことだとおもうから
じぶんの好悪の感情でさえ、ひとは容易に騙し得る(「評価」ならなおさら!)

じぶんのかんじゅせいくらい、ていう詩があって、わたしはあれが好きだけど
ああいう詩がこころをうつのは(好きなひと、けっこういるよね?)、
げんじつ、そうはなれないひとのほうが(じぶんも含めて)多いからっていうのが一因だろうとは想像がつく
だって何もかも上手くいかなくて、誰からも助けてもらえるとかなくて、どうしようもなくつらいときあるじゃん、ねえ、みたいな
この世のすべてと自分を呪いたくなる瞬間に、じぶんの感受性は守られてないよね