>説明が難しすぎる
何かをパラフレーズすることのむずかしさ
わたしはリストみたいな超絶技巧はないのですよ><
それから、ここであえてパラフレーズという修辞用語をつかうのは、リストの楽曲の素晴らしさがここでわたしの言いたいことをよりよく伝えるんではないかと期待するから
華麗に装飾されてる等ではなくて、リストのパラフレーズをきいたときやまた元の曲に戻ったときとかに、なんだか、あ、て思う瞬間がわたしにはあって、この「あ」が何なのか言うことがむずかしいのはわたしが音痴というか音楽的センスとかいうやつにまったくかいているからだとおもうけど、そういうわたしにも「あ」て思わせられるのはリストの手柄なのだということを言いたい
いっぽうで、じゃあまったくわたしがパラフレーズが苦手なのかというと、たぶんそういうことでもないのだとおもう
小説というのは別のことばでいうと、「言いたいこと」(かっこうをつけるなら、主題などともいっていい)の延々と続くパラフレーズであるともいえなくはないわけで、としたら、上手には出来ていないのかもしれないが、まったくできないことではないともいえる
あるていど、
小説を書く際の「技法」といったことならば、じぶんでやってることは他者に想像でき得るレベルでどうにか伝えることも可能かとおもう
アートが文字通り技術以外の何ものでもない、ていう古めかしい信条の持ち主だし
めも
http://h.hatena.ne.jp/florentine/245115919200403339
だいたい同時にこのくらいのことを頭のなかに展開させながら小説をかいている
小説内で語られる内容の時空そのものをまず、眺めわたしている、キャラがどう動いたとか、その人物の立っている場所とか、そういうこととそのベクトル、プロットとして指し示されるもの等
それと同時に、上記で言うところの物語として語られている内容と語り自体の差異とでもいうものを見ている
ここでは同時に複数の「視点」がありつつも、それぞれに一貫性持続性があるために、情報を認識しやすい
抜け落ちていたとしても、それはわたしの指の間を抜けていったとそこそこには、ワカル
または、アタマの後ろに広大な物語領域やその他の「何か」があるものとして、漠とは認識されている
閉じているところと開いているところの両方が、とにもかくにも了解されている
もっと小説が上手に描けるようになったら、かいているときのじぶんの脳の働きとかはいちど見てもらいたいとおもったりする(ていうか、わたしの尊敬する小説家たちの脳内の動きは探ってみたい!)
ただし、ハイクで何かものをいうときにはその機能はたいていオフになっている
理由はいくつもあるのだけど、まず「物語」がないので「絵」がないのと、「物語する内容」にあたる動機がじぶんのなかでみあたらない
こんなに自分ジブンな人間なのに、小説書きとしてではないじぶんのこというのは凄く苦手
じぶんの「立ち位置」がみえないから「視点」が確保&持続されないし
イメージを多用することが許されない(ゆるされない、というか、「小説ではない言語」とはそういうものなのでなあ)
もっとちゃんと伝えられる、小説でなら! ていう気持ちがあるから、言いやめてしまうんだとおもう
で、実際にそのほうがまともにいえてるし
ヴォルテールが思想家にはなれなかったってこないだの『ツナミの小形而上学』にかいてあったけど、
ごめん、それ、世の中的にはそうなんだろうとは納得できなくはないけど、わたしにはそうはおもえないんだよね
ただし、小説はコミュニケーションつーるじゃないし誰もが読むものでもないので
小説なんてよまなくてもいきていけるので
誰かと関わりたいと切望したときには、
そうじゃない言語を用いないとならない、てことはわたし、ちゃんとしっかり覚えてないといけないのよ?
てこと
