エコノミーの概念史については、古代ギリシャにおける「家政」(オイコノミア)に始まり、ストア派における神の宇宙の「統治」、キリスト教神学における神の三位一体の「経綸」および救済計画の歴史的な「運営」、また中世における神の世界統治論(「配置dispositio・統宰gubernatio・配剤dispensatio」)や、修辞学における語や題材の「配列」を経て、近代における有機組織体の「秩序」、そして現代的な意味である政治「経済」へと至る、という道筋を辿ることができる。このような本章の考察から、エコノミー概念を規定するひとつの範型として、「主人=主体が何らかの法・秩序によって自らの所有物を支配し、配置し、管理運営すること」が抽出されることになる。
「バタイユにおけるエコノミーと贈与」佐々木 雄大
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/postgraduate/database/2012/53.html
ブランショが<アル>と呼ばれる中性的な存在に拘るのは、そこに、<私>と他者との「率直な」言語活動を脅かす可能性-それは、ブランショによれば「文学の贈与」である(一九八〇年「われらが密かな同伴者」)-を認め、それを重大な問題として受け止めていたからである。<アル>に晒され、知る能力を剥奪された「私なき私」には、無限の責任を負うように呼びかける他者の呼びかけと、正義を求める他者達の呼びかけは、それとして到達するのだろうか。他者の「後ろから」あたかも<神>が命令するかの如く語ることは、他者を絶対化し、絶対化された<他者>にたいする責任を負う<私>も絶対化してしまうだろう。そうした絶対化を脅かすのは<アル>だ。レヴィナスが主張しないではいられなかった、<神>による<私>の選び、<他者>によって蒙ること全てを<他者>のために蒙る<私>の「能力」、そしてそのようにして<私>と<他者>とが結びうるかもしれない<揺るぎなき関係>は、<アル>に脅かされるのではないか。ブランショは、この問いを、レヴィナスに差し向けたのではなかろうか。
<他者>を揺るがす中世的なもの 《il ya》 -レヴィナスに向けられたブランショの問い-
上田 和彦
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/postgraduate/database/2002/182.html
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これ、中性、だよね
ていうか、むずかしい・・・
キニャールの『性と畏怖』が早く翻訳されればいいのに!!!
