そうだ、きのう書いて消えちゃったのは澁澤の大江健三郎評(初期っすよ!)についてなんだけど(もう同じ量だけ書く気がしないw)、
さすが、というかなんというか(三島の読みもさすがだが)、
いまの時代に振り返ってみた評価とずれがない(というか的確な)のは、やっぱり当たり前に「読めて」るんだろうなと。
作家の初期の段階であれが書けるって凄いことだと思いました。
あと澁澤はほんとうに巧みな日本語遣いだわ。澁澤が翻訳が好きだというのは、つまりその日本語能力を活かしきることができる作業だったのかもと想像する。
それとぜんぜんはなしはちがくて、幸福の追求はやめようって書いてるのがあって、
そうだよねえ、幸福じゃなくて快楽ならそれって自身の「感覚」を裏切らないものねえ(わたしの場合は)って笑ってしまいました。
そうそう、このひと、幻想とかなんとかってたくさん書いてるけど、それっていわゆる地に足のついてないってやつじゃなくて、精神性より肉体的なものへと最終的に傾いたひとだよなあ、と。北方よりイタリアを愛してしまった時点でそこは抗いようがないというか、新しいものはいっさい発見せず、確認するためだけに生身を使ったというか、まあ三島の一件とそのへんは奇妙に相反するとか、いろいろ。
澁澤が読みつがれるのは翻訳者、海外文化の紹介者としての立場だけでなく、ある種のダンディズム、三島がほんとうの意味で得ることのなかった乾ききって鉱物と化した「高尚」、いまではそうであることが罪悪であるかのような奇特な振る舞いにあるのではないかと思う。たとえそれがこのうえもなく卑猥で下品なものを語ろうとも、というかそうしたものを超然とかきおろす不遜をそう呼ぶのかもしれない。
(けど、本人が幸福であったかはやはり知れない。三島のほうが人間的にあまったれで、誰からも愛せられないとか散々かいておいて、一緒に死んでくれたひとがいるぶん、それなりに幸福なような気がする。と書いちゃうほどにわたしは下品です、ごめんなさい。でもだって、だってさああああああ)
(せっかくなのでキーワードにあげてみたv)
澁澤龍彦のことを語る
