id:florentine は
id:gustav5のことを語る

いきなりの突っ込みですみませんが、
「読者」が「作品」を読むさいに「自分(読者)の内なる問題」に近づけて、または作品に自身の体験を「託して」よんでくれることは、少なくともわたしという「作者」にとってはこのうえもない歓びですよ?
たぶん、gustav5さんの「近づけない」というのはもしかすると、世間一般でいう「文学批評」なり「文学研究」のようなものををさすのかもしれませんし、そうした場合にはある程度、「個人的体験」よりは「一般的解釈」とでもいうものを指針にしたほうが「正解」であると言われてるんじゃないかとは思いますが、わたしはたいていの場合、同時代の人間の「評価」はあまりあてにならないと考えていますし、「作品」の評価は「歴史が決める」と思っているので100年生きないであろう人間の尺度でそれより長生きする「作品」をはかると何かを見失うのではないかと感じます。
それから、とても正直なはなし、書き手の多くは批評とか研究についてそんなの要らん、どうでもいいよ、くらいに冷めた視線をもっているものではないかとも思います。むろん、ものすごく良い批評なら別です。それは別です。
けど、たいていはたいしたことない、て思ってるのが基本的に傲岸不遜な作家というひとたちのスタンスだと容易に想像できるのです。三島にしても批評家のほとんどを馬鹿にしてましたし(笑)、馬鹿は批評家になっちゃいけない小説家は馬鹿でもいいけど、ってなことを言えちゃうのが小説家という野蛮人だとわたしには思えるのです。
とにかくです、
わたしの知る限り、作者というひとたちはその「作品」をなによりも「じぶんのものとして欲しい」、「読者さんの人生のなかで活かして、生かしてほしい」って願ってると思います。そしてそれこそが本来の意味での「作品解釈」ではないでしょうか? こういう感じ方はわたしだけじゃなくて、実作者(プロ)の方のおはなしとか聞いても、そんな感じです。
つまり、なにがいいたいかといいますと、
gustav5さんはとても素晴らしい「文学」の享受者だとわたしは思ってますよ、ということです。