申し訳ないけれど
(そういうはなしをしているのではないことがわかっていて八つ当たりのようにツッコムので謝っておきますごめんなさい)、
文学者になりたい、文学に死ぬほど恋焦がれている人間から自身の尊厳をかけて反論しておく
「文学に対しての解釈は実質は「こういうふうにこたえておけばおk」みたいな、そういうの」では、断じてない
そうであるはずはない、
絶対に、どんなことがあっても、そんなものではない
そんなものに成り下がったことはいちどもないし、未来永劫、文学が文学である限り絶対に、どんなことがあったとしても、それはない
そうなったものを「文学」とわたしは呼ばないし呼ばせない、何があろうとそんなくだらないものではない、
卑しくも文学を目指すものたちはそれを断じて許すはずもない
少なくとも、わたしの愛する作家たちはそういう人生を貫いてきたはずだ
あまりにも小さな差異や違いをないものとせずきちんと拾うのが、そしてまた摩擦が起きないよう声をあげられずにいるものたちのその、声になる前の呻き声をすくいあげるのが「文学」の最大の仕事のひとつです
生きづらさ、生きにくさ、つまり世にうまく混じれない染まれない苦しみは文学が描き得る最大のテーマのひとつでしょう
そしてそれはまた、「権力」というものに対する態度がすでに、文学のひとつの仕事たりうるという証左だとわたしは考えます
「退屈という名の獣、常識」ジョイス
翻訳者の柳瀬氏いわく『フィネガンズ・ウエイク』中、唯一ふつうの、いわゆる誰もが読める英語で書いてある文章だそうです
わたしはジョイスからはまだ逃げ回っていますが、
この語の意味は重いものとして受け止めます
ジョイスのこの作品は、三島が訳そうとしていた小説です
わたしは三島が死なないで、しばらく小説をかくのをやめてこれと対峙すればよかったと考える程度には、ジョイスを凄いと尊敬しています 真価がわかるというほどには賢くありません、でも、あそこまで人間はやり尽くせるのだという、そういう境地を示すことができたジョイスはかっこいいです
ひとと違うというのは生きづらいことですし他人にあわせておかなければ排除されるおそれのある大変な世の中ではありましょうが、
せめても、じぶんのこころは「自由」ではありませんか?
強く生きなければというはなしではなく、
弱くても、臆病でも、変わっていても、少数派でも、文学(藝術)というものだけはそのひと個人の味方であると、そのひとを愛するものであると、わたしはいつでも思っているのです
そして、そうではないものをわたしは文学と認める気は一切ないと、言っているだけのことです
て、
なんかこないだから八つ当たりしてごめんなさいです~
いやでも、
ジュネみたいなひともいるのだから、あったかいところでぬくぬくとこうしてネットしてられるわたしが文学を愛してほしいと言わないと申し訳ない気がしてしょうがないのですよ
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