三島由紀夫『小説とは何か』(新潮社)
「炭取は廻った」。そうそう、これこれ! 十四歳(だったと思う)でこれに出逢い、わたし、これを目指して書いてきた気がする。三島の「虚虚」(虚実ではなく、キョキョとしか言いようのない「動機」、虚が加速して実を追い抜く三島の「姿勢」)を裏打ちし肥大増幅しつづけた、あの「強迫観念」が各所に満ち満ちて、その「そらぞらしさ」のあまり息苦しい。
世の中のひとにこの本がどう読まれるのかはなはだ疑問ではあるのだが。
三島とタイプ(気質? というか、まあ、書き方)の違う作家であろうとも、おそらく、それなりに三島を読んでいれば、これが別の形の「遺書」にならざるを得なかった理由はつかめるものと思われる。
「書く」は、どうしても「生きる」と直結してしまう。真剣に書けば書くほど、書き手は誰であれそれについて「意識」せざるをえないのだから。
(無視はできる、かもしれない。故意にずらすことも、できる。ある程度、ソレをする。しないでは生きて書くことが難しいから。三島はそこを追及しすぎている。故意に。それを強迫観念といい、自身に対する偏見、または幻想と呼ぶ。こうあれかし、と望む己からは逃げがたい。他者からは容易に逃げ切るウソツキであればこそ、そこからは目を背けがたいのだ。ゴルゴンの盾、あれに魅入られたように。
わたしはやはり、あの四巻本を書き終えた彼をお姫様抱っこで攫ってくるべきと思う、マジで。よくわからないが(ウソ、知っている。わたしはそれを知っているよ)、ごめんね由紀夫さんって思った。ほんとにごめんね。こんなこと書いてw けど、死人に口なしなのさ。へへん、だ!)
本読了のことを語る
