んと、マジレス友の会会長がゆえにマジレスいたします。
なにゆえに、どうしてそんなに「向き合ってない」と否定なさるのかわたしにはよく理解できないところがあるのですが。ご謙遜という、たいそう美しい心根のゆえかとは勝手に解釈してますけれど。または、わかりますというひとほど「わかっていない」的なアレを懼れておいでなのかなと。
とりもなおさず「文学とはどうあるべきか」というたいそうむつかしい問題がこの場で問いただされているわけですが、どうあるもこうあるも、おそらく、「文学はただそこにある」、くらいのものではないかと個人的には思っています。もしくは、「なんのかんのと実は常に熱烈に渇望されている」かな。きゃつらの「人称」をどう捉えるかという問題もありましょうが。文学者がどうあるべきか、と、文学がどうあるべきか、はまた違う問題で、「文学をする」というのもまたさらに違う問題で。さらにはサルトル以降この問い立てはいよいよむつかしいものであったりもするでしょうが、わたしは、「文学」が人間が人間として生きてある限り付きまとい続けて人間を離さない何か、というふうに思っています。
なので、「17の頃からその考えがこびりついてて、抜けない」何かというと、それはまさにわたしの思う「文学の条件」と合致します。
いっぱんに、「文学」や「芸術」がどんなものかという問いや条件において、それが「高尚」なものといった願望や、または「拙劣ではないもの」といった技術的な要件などを挙げるひともあるでしょうし、わたしはそれを一概に否定するものでもないのですが(たぶん)、いっぽうでそもそもの根源的なところにおいて、「文学・芸術」は生きることの歓び、愉悦やら歓喜やら何やらといった快楽、楽しみ、純粋な、これ以上なく穢れない「よろこび」のようなものを讃えたり授けたりするといった役割や効用があるかと考えています。
苦痛さえ快楽、的なものも含めて。
少なくとも、わたしにとっては、そういうものを「文学・芸術」と呼びたい気持ちがあります。
とはいえ、「文学」などといったものはそのひとそのひとの定義や時代の何かもあるかと思うので、これはわたしの一意見にしかすぎませんが、
その意味において、
gustav5さんは、たいそう「真正面」に文学と向き合っているとわたしは感じます。
それと平行して、
「文学する」のひとつの要件としてわたしが挙げることは、「斜めからものを見る」という捻くれ具合でして(笑)、あんまり素直にまっすぐモノを見てしまうとそこに「文学」は生まれづらいと感じます。だからこそ逆説的に「向き合ってないのです」と書かれればかかれるほど「向き合ってるよ!」と言いたくなるのですが、まあそれは、わたしが「マジレス友の会会長」であることの「業」ということでお許しいただければと存じます(笑)。
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