~バタイユ様を気取ってエロティシズムについて語ってみる夜!~
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>florentine ↓う、ものすご~く、おっかない質問が(笑)。出かけるのを言い訳にして逃げちゃおうかしら。って、それは勿論冗談ですけど。本心から、困難極まるところです。後ほどハイクででも呟かせていただきますね。 2009/12/22
>angmar id:florentine そういえば中島梓は小説道場で「直接的な描写をせずともいくらでもエロくできると宇野鴻一郎に教わった」とか書いてましたね。言葉から連想喚起されるエロティシズムはどこまで直接表象なのだろう。 2009/12/22
さて、id:angmarさんにご満足いただけるかどうかわかりませんが。
清らかなる聖夜にエロティシズムについて語るのもオツなもんと、覚悟をきめて考えます。
その前に。
勝手ながら、「直接表象」の表象を、「表現」にしてハードルをさげさせてもらいますね。ついで、「直接」についての定義、ですが。
言語における「直接/間接」ってどうなってるんだろ? メタファーの類のはなしをするには、わたしに知識が足らなさ過ぎる。「本よめば書いてある」レベルのことをハイクで呟くのもなんですよね?
たとえば「傷口」と「ナイフ」というだけで、「交接」をあらわすのは平易でしょう。「花」や「蕾」でも安易です。以上は視覚情報系ですよね。それから、「咳」でさえも、使い方によっては行為を連想させます(これは、映画『アラビアのロレンス』で実証されていました)。「ふたりの息遣いを早めて溶暗の熱がこごった」と書けば、これで十分に性行為だとわかる。
ってことで、自分の立ち位置を見定めてこたうるとすれば……
とりあえず。
隠微(淫靡)とは、その名のとおりに隠れたるものであるという認識がそのひとにあるか否か……?
いちおう、小説家たちはこれを有るものとしてエロティシズムを描こうとしている、とわたしは考えます(そうじゃないこともあるし、また、こういう考えも、もしかすると文学でできることを狭めているとは思うのですけどね。それはけど、いまは別のはなしです)。
とにもかくにも、視覚表現では為し得ないことをする。
つまり、物体や行為それそのものを示す語を用いてしまえば、絵画や映画、マンガなどに敗北するのは必至です。人間の五感のなかで、視覚の優位性はわたしなどがここで詳らかにする必要はないでしょう。そして、それゆえにわたしは「視線の欲望問題」なんていうタグを作ってしまうのですから(笑)。
ところで。
わたしが思うに、ここでいう「直接的な描写」とは、至極単純に「行為」や「肉体」の名称を一切用いずにその場に「エロティシズム」を満ち溢れさせる技術であろうな、と。なにしろ、栗本先生ですから。あんまり難しいことは考えてないだろうとわたしは勝手に解釈いたしますデス(笑)。悪口じゃなく、それが、エンタメ作家の矜持だと思うのです。難解であってよいはずがありません。
だから、栗本先生の場合の「どこまで」はここらへんのお話しだと思います。ここで語句を並べることはしませんが、ブクマでも書きましたように、その言語領域の取捨選択等が「作家性」なのでしょう(もちろん、時代やジャンル領域で研究はされるといいなあって思いますけど)。
この先は、たぶん、言語論ではなくて、「作家論」の範疇ではないでしょうか?
けっきょく、作家の「秘儀」に限りなく近づいてしまいます。
そして、いくらでも難解であってよい場合。
わたしは、よほどこちらのほうがエロティシズムに向いていると考えます。
わかりにくいこと、あからさまではないこと、畢竟エレガントであればあるほど、隠されたものの魅力や権威は増し、手に入れたときの達成感(またの名を征服欲というほうが「えすえむちっく」でよいかしら?)、その悦楽は大きい。
『薔薇物語』の薔薇が穢れなき美少女の表象であると同時に、そのもっとも秘められた場所をさすものであるように。邪魔するものがいればいるほど、つまり困難であればあるほどそそられる、というのが、エロティシズムの一応の前提であると、わたしは思っています。
(これについては昨今どうも違うようで、S先生もお嘆きになっておられましたとおり。つまるところ、過激なほう過激なほうへ流れるのは刺激の不足、想像力の地位の失墜……などと言い出すと、ひじょうに年寄りくさいな。でも、わたしはあからさまなものに気持ちが萎えてしまうので、ここぞとばかりに言っておこうっと☆ もっと、「いんび」なるものの復権を!!)
直接描写といわれるものがエロティシズムから遠ざかるのは、それが想像力をまっすぐに矯めてしまうからだと思います。「限定」された事物、行為には「遊び」がありません。ストレートに誰にでもわかるように書くこと、誰もが同じものを同じく指差せてしまう場には、そのひと個人の感情の揺れも、とっておきの記憶も、お気に入りのシチュエーションも入り込む隙間がないのです。
そんなわけで、わたしが今までの人生でいちばん美しい、淫靡だ、凄い、と感じた性愛描写は、ダンテの『神曲』の第五歌です。その後ありとあらゆる小説家に画家に映画監督に、そして漫画家にも真似され尽くした、フランチェスカの独白です。
これは、ちょーズルイです(笑)。
ほんっとおおおおおおに、ズルイ。凄い。ヤラレマシタ、さすがダンテ様です。
手許に『神曲』の本はありますが、そこを写さず(!)、上田敏の語を孫引きしましょう。
「天才の詩人が簡勁高俊の筆路に複雑なる感情を写し、かくも奔放なる恋愛を叙しながら豪も露骨の痕なきは後世の激称してやまざる所なり」
『詩聖ダンテ』より
ひとは、その「想像」の内でこそ、最高最上の「エロティシズム」に耽溺することが可能です。読者のもっとも愛する、そのひとだけのとっておきのエロティシズムに辿りつくためには、何も、ほんとうに何も描写などしないほうがよいのです……。
丸谷才一が『輝く日宮』で喝破したように、一行ブランクは行為のもっとも優れた表現であり、少女小説でいうところの「朝チュン」こそが、わたしには最上のエロティシズム描写と思えます。
そんなこんなで、ご質問からは、なんだかずっと遠いところへと着地してしまいましたが、今日のところはこんなものでお許しいただきたく。
お題を頂戴して嬉しくて好き勝手におはなししましたので、お尋ねの件からはなれておりますでしょうから(笑)、ご遠慮なく、ツッコミのほどよろしくお願いいたします。
ではでは、
めりーくりすます、じょわいえのえる~☆
florentine(磯崎愛)のことを語る
