id:usaurara は
うさのことを語る

だとすれば、「性器切除が文化でない」と指向することと、そう発言することのあいだに、いかほどの困難もともなわない、この日本という環境において、「アフリカの女性たちがそう言っているから」ということをもって、自らそう語ることの正当性を担保しようとするなら、それは、発話者の主体性と責任の放棄でしかないだろう。主体性の奪回を目指す、それ自体、主体的なアフリカ女性たちの闘いに、私たちが連帯しようとするなら、私たち自身の主体的責任をまず、全うしなければならないはずだ。
 さらに、アフリカの女性が、自らの社会において何が「文化」かを決定する主体として「割礼は文化ではない」と語るのと、日本の女性たちが、異なる文化について、そう語るのとでは、決して同じではない。「文化」が人間の手によってまったきまったき自然から人間を区別し、人間を「人間」なるものに営為だとするならば、性器手術もまた、紛れもない「文化」である。そして、「文化」であることと、「暴力」であるということとは、いささかも対立するものではない。いや、人間をその意志とは無関係に「人間」たらしめる「文化」とはむしろ、その根源において、そもそも暴力にほかならないではないか。「割礼は文化か、暴力か」という単純な二項対立を支えているのは「文化は良いが、暴力は悪い」という、同じように単純な言説である。「戦争はいけない、悪いのは戦争である」といった言葉と同じく、これらの発話が示しているのは、発話者における批判的思考――思考とはそもそも批判的であるはずだが――の停止と、発話主体の責任放棄である。したがって「割礼は文化ではない、暴力である」と日本人が語るのであれば、少なくとも発話者の責任として、まず、「文化」と暴力の関係性が徹底的に思考されなければならないのではないか。
 
          ~ 岡真理 著 「彼女の正しい名前とは何か」 p151~p152 から引用