白か黒か。右か左か。有か無か。あれかこれか。どちらか一つを選べ。選ばなければ殺す。しかも沈黙していることはならぬといわれて、どちらも選びたくなかった場合、どういって切りぬけたらよいかという問題である。二つの椅子があってどちらかにすわるがいい。どちらにすわってもいいが、二つの椅子のあいだにたつことはならぬというわけである。しかも相手は二つの椅子があるとほのめかしてはいるけれど、はじめから一つの椅子にすわることしか期待していない気配であって、もう一つの椅子を選んだらとたんに『シャアパ(殺せ)!』、『ターパ(打て)!』、『タータオ(打倒)!』と叫びだすとわかっている。こんな場合にどちらの椅子にもすわらずに、しかも少くともその場だけは相手を満足させる返答をしてまぬがれるとしたら、どんな返答をしたらいいのだろうか。史上にそういう例があるのではないだろうか。数千年間の治乱興亡にみちみちた中国史には、きっと何か、もだえぬいたあげく英知を発揮したものがいるのではないか。
開高健著「玉、砕ける」 (文春文庫ロマネ・コンティ1935に収録)
ってのがあって、ちょっと前に読書のエントリのところにも書いたのだけど、この設問はずっと苦しんでて、いまだに答えがでません。最初に質問を受けた香港の人は質問には答えず、老舎のことを述べはじめます。老舎に革命後の文学者の生活について問うのだけど直接その問いには答えず、三時間にわたって、西安だか成都だかの食堂で、そこに出される料理、どんな味か、どんな泡が立つかなどを含め描写をずっと語っていた、という話をします。それに「わたし」はなにか強烈な暗示を受けた、と書きます。でもって「玉、砕ける」の中では答えはありません(ついでに書くと開高さんは晩年は政治的なことをあまり発言せず釣りと文学に集中します)。
直接答えずに事態を観察しつつ、その語るという行為が実は重要で、生きてくよすがになるのかなあ、などと考えてるのですがあってるかどうかはわかりません。もしかして文学の何割かは本来直面しなければならないことと直接は対峙せず、生きてく上で必要な退避のシェルターなんじゃないの、それが「語り」とか「物語」なんじゃないの、なんておもうのですが、ハイクをみてると文学はある程度の知識がないとわかんないものらしいのでスタコメでなんかいわれるのも嫌なのでここらへんでおいておくとして。
話がずれた。
増田の人が書いていたマルケスの引用の、人は物語るために生まれてきた、ってのはほんとかどうかわかんねーし、実際ほんとかよー、とかおもっちまうのだけど、ああでもそういうこともあるかもなーとは思う。それなりにみて来たこと・経験したことをそのまま貯め込まずに健康的な語りに載せたい欲求ってのは文学とは関係ないところに生きててもあるもの。
ぜんぜん関係ないけどこの「玉、砕ける」の設問が私にとってはたまに直面する切実な問題で、ほっぽっとくとそっちへ思考がいってしんどくなってくるので、逃げ込むためにフィクションに手を伸ばすことがないわけではなかったり。
