[乱反射受信]
寂聴師がかつて、小説は読んで、この気持ちは私も経験した、これはあの人の経験していることだ、と感じるような、非常に親しいもの、ってかいてて、それはおそらく寂聴さんの文学に対するひとつの解なんだろけど、それをベースにすると、「経験したことが無い人にはなにがなんだかわからない」文章というのが生まれかねない。おそらく文学とか小説というのはひどく弱いものなんじゃないかな、とは思う。
ここらへんのこと、古典がなぜ読まれるか、というのと自分の中では底辺でつながってくるのだけど、「あいみてののちのこころをくらぶればむかしはものをおもわざりけり」ってありますけど、恋とかそういう厄介なことにかかわると、恋してるときとそうでないことを比較しちまうことがあるんじゃないかなと思うのです。もっともこれも「そんなことねーよwww」って言われたら終わりの、弱いもののわけで。そんなふうな人の経験を照らすのがおそらく文学のひとつなんだろな・古典はその普遍的なところが凝縮されてるから今も読まれるんだろな、と勝手に解釈してるけど、あってるかどうかは知らない。
読んだことによって、自らの経験を照らされた、と思う人もいるだろうし、その経験はひとりではなかったのだ、と知って解放されることもあるんじゃないかな、と。寂聴師にとっては照らされたのが源氏物語なんだろけど、それが寂聴師にとって幸福なことであったのかどうかはわからない。
ぜんぜん関係ないけど自分のことを書くときにはみられることを前提にして、そのかわり匿名にして人には逢わない原則を作って、なるべくなんでも書くようにした。それを解放というのかなんというのかわからないけど、最初に「ああわかるー」という人が居た時は、書くことはなんて甘美なんだろ、とおもったことはある。
