いまいちまとまらないのだけど、うー。
「他人の出した解答」というものの解釈を学ぶというのが「国語教育のようなもの」で、その他人の解釈になんとなく違和感があるときに「あー文学は俺には関係ないものだ」モードが働くというか。
東海の小島の磯の白砂に我泣きぬれて蟹とたわむる、ってあるじゃないっすか。あれ、泣いてたら蟹が見えないから戯れることなんかできないと思うのです。東海から蟹へと視点が絞り込まれていくので作者は自分が孤独であることを否応なしに感じて、それが「泣きぬれ」た理由って、いわれて、へーそうなのか、と思ってたけどいまいち納得してなかったんすよ。そんなことでひとは泣きぬれるのか、っていう妙な疑問があったので。で、函館に碑があって、わがまま言ってみにいったことがあるんすが、いまいちぴんとこなかった。で、本郷で偶然この歌碑をみつけて、金田一さんに金を工面してもらって本郷にいて文章を売り込んでたこと・うまくいってなかったことを知って、泣きぬれてるのはうまくいかなかった悔しさなのか、というゲスな勘繰りをしてやっと泣いた理由を理解したような気がしたのです。石川啄木という人じゃないけど、うまくいかない悔しさってのはわからんでもなかったから。このうまくいかないくやしさってのが、投影なのかもなんすが。もちろん正解は啄木さんにしかわからんはなしなんすが、それは兎も角。
で、世の中の大勢の解釈、というのに疑問を持っても「普通はそういうことを考えない」といわれると「うーんそうだろなー」と気弱に肯定しちまうところがあって、そこらへんが自分の自我の弱さなんす。
中島梓さんだったかなあ。どこかで「表現ってのはか弱い自我をズダズダになるまでさらけだすこと」みたいなことを書いてて妙に印象に残ってるんすが、もし書くことでそこらへんが鍛えられるかな、と思いつつ軟弱なままだったり。
