【ぼんやり】
自分の考えた言葉ってのはたぶん自分の脳内でこねくり回した結果でてきたものなので、なんとなく自分の脳内では説明できてわかってるのだけど、たぶん自分に判るんだから他人にもわかるかもしれん、ってのがあるとどこか空滑りして、空転する。ひとりよがりってか、他人にはわかんないかもしれないひとりよがりな文章になっちまうのです、自分の場合。
だから寅さんの「俺がイモ食ってからっててめえが屁をこくわけではないだろう」ってのはすごく、ぐさってくるんすけど。そうなんすよ、俺がイモ食ったように言葉をこねくり回したって他人にそのとおり判るわけないわけで。
ただ経験とか、似たような過程を通ったことがある人ならわかりあえることがあって、よくだすたとえなんすけど「あいみてののちのこころをくらぶればむかしはものをおもわざりけり」ってのはわかると思うんすよ、誰か好きな人が現れたらデート前になにきてこうかとか、何処へ行こうかとか、何喰わせようかな、とか考えたりするし、電話で声聞きたいなーとか、考えちまう。
そういう心の軌跡みたいなものを表現するのが文学のひとつというんだとするならば、文学というのはたぶん、個人的には魅力なんすけども。
全然関係ないかもだけど漱石の【吾輩は猫である】のなかに、いちばん最初に見つけたものがそのたべものの所有権を取得するという猫は猫のルールがあるのに人間はそれを守らないとんでもないやつらだ、というような趣旨の話があるんすよ。で、猫に猫のルールがあるんだあ、という軌跡がわかると、猫の行動って理解できそうな気がするんす。だからひょっとしたら、行動とか言葉のうらにあるよな軌跡ってのを記述すれば実は言葉はわかるのではないか、漱石は人間の行動を猫の視点から分析することでそれをやってのけたんだと思うのですが、たぶんこういうこと書くのは漱石をよんだことしかないひとにしかわからん独りよがりの書き方かも知れなかったり。
話は脱線しますがたぶんたくさん本を読んだ人ほど他人に伝わる言葉を持ってるんじゃないかと思うのだけど、どうなんだろ。
自分(id:gustav5)のことを語る
