id:gustav5 は
自分(id:gustav5)のことを語る

どこから説明していいのかわからないのですが、追加で説明すると、開高さんの「玉、砕ける」もそうなのですが、個人的に私がずっとひっかかってる課題に「シビアな状況の中でどうやってやり過ごすか」というのがあります。それを文学の中に探す、ということを私はしてましたから、あんまりよい読み手ではないのです。井伏さんの「黒い雨」も実はそういう読み方をしてました。安芸門徒ではありませんが目の前の状況を前にして白骨の御文章を唱えるというのは、人のあり方としてそれしかないんだろうな、とか、そういうふうにとってたのです。
また「語りたくなるきっかけ」というのが気になりだします。仮面の告白なんかがそうですが、人は抱えきれない秘密をもつと、語らずにはおれん生き物なのではないか、などと考えるようになりました。鰯売戀引網などは中村屋さんがやってるので喜劇になっちまってますけど身分違いの恋とか人に言えない恋ということを考えると、三島さんがちらちらみせる骨の部分というのはどこか悲劇的っす。でもそれを小説や喜劇にすることで、なにか消化したのではないかなあ、と思うようになってます。
あと女の人じゃないから寂聴師のいってることが判ってない可能性もあるのですが、ぱーぷるという偽名をつかってまで書いた源氏物語に関係する話で「源氏物語では源氏がお父さんの恋人と不倫をしますが、それに対してすまないという気持ちが足りない。須磨に隠棲しただけで、しかも明石の君と出会っている。私のヒカルには罰を与えたかった」というのを読んで、「寂聴さんの中の内なる源氏物語の問題」という深い淵をみて、絶句しちまうこともあります。
抱えてるなにかを解放したくて、人は他人に読んでもらおうとものを書くし、語るのではないかなあ、文学ってそういう側面があるかもしれないな、などと考えるのですが、でもって、そういう読み方をしちまってるので、愉悦とか喜び、というのとはちょっと違うところから眺めてるところがあります。読んでる方の実感としては文学と向き合ってる意識はないわけです。文学をする人の抱えてるものをのぞき見してるゲスなところがあるかもしれないっす。でも、それは個人的にすごく興味のある分野なのです。シビアな状況の中で、どうやってやりすごすか、という問題がいまだ解決してない人間からすると。

で、「読んでるとシビアな状況を忘れさす麻薬としての物語」を読むこともしてます。「鹿男 あおによし」とか「すべてがFになる」とかもそうなのですが、ぐいぐいとひきこまれて、そういう物語も好きなのですが。
巧く返答になってなかったらすいませんです。