もし仮に、良い読者であったならば、三島さんの作品でいえば、その美学とか、根底にある哲学とか(たとえば豊饒の海であれば唯識論)そこらへんを汲み取ったりするでしょう。
じぶんでいやらしいな、とおもうのですが、最後の最後に「記憶というてもな、うつる筈もない遠すぎるものを映し出しもすれば、それを近いもののようにみせもすれば、幻の眼鏡のようなものやさかいに」という語句をひっかかってて、最初の「仮面の告白」で生まれた時の産湯の記憶や、階段であった汚わい屋の青年の記憶と絡めて、ああ三島さんはあったこともなかったことも記憶してて、その残り香というか「幻メガネ」に苦しめられたんかなあ、とか、考えちまうわけです。
人間って過去の記憶にも苦しめられることがあると思うのですが、三島さんは苦しめられたのかなあ、と。
月修寺の門跡さんは過去の記憶について「なんやら本多さんがあるように思ってあらしゃって実ははじめからどこにもあられなんだ、ということではありませんか?」と突き崩すのですが、最後の最後にそういうふうにいわせることで記憶の問題にけりをつけたかったんかなあ、とかゲスな勘繰りをしちまうのです。そういう些末なことに気をとられる意味でも、良い読者ではないかもっす。
おっそろしく変なことを云ってるかもなんすけど。
