こんばんは。
おっしゃるとおり正統を主張するほうがそうでないほうを異端と定義して抑圧する、というのは好ましくないのですが、自戒をこめていうのですがなにがしかの信仰を持つ場合、それが正しいと思ってその道に進んでしまい、差異があると「それはちがうんじゃないの?」となんとなく否定したくなるのです(菩薩のような心を持てないわが身を恥じるのみなんすけど)。話が脱線しちまうかもですが、既に点いてるほかの灯明から火を貰うってのが他人の業が移るっていうふうに教わってるので、それを他人がやるとそれはまずいっすよ、ってなことをいいたくなるんです。でも、これほかの宗教の人からするとどうでもいいことなのかもしれないのですが。
毎日キリスト教に帰依しお祈りをささげてる人からみれば、真言宗のお寺である以上は仏教への積極的帰依を口にしてた人はたぶん厳しいこと言えば純粋なキリスト教徒じゃないかもしれないわけで、そこらへん斟酌すると正統ではないって云えばそうなんだろな、なんておもっちまうのです。でもその十字をたよりにこっそり信仰を守った人が居たとすると、正統であることにどれほどの意義があるんだろう、っなことを考え、螺旋階段をぐるぐるとまわるようになっちまうんすけど。
奈良井のお話は興味深いです。塩尻の辺りにもあったのですね。正直、びっくりしました。山中にうめたお地蔵様(といっていいのか、マリアさまといっていいのか)を土中にうもらせたまんまではまずい、ってのは、信仰の力なのかな、って思ったのですが。
カクレキリシタンの信仰についてなにか語れるほどの経験をしたかっていうと、

ないのでかわりに平戸の瀬戸山天主堂の写真を。
大正時代にたてられたのですが、この教会を立てるにあたりフランスからの援助もあったらしいのですが、日本では資金があまり集まらず、レンガを積むためのセメントの代わりに焼いて砕いた貝殻をつかってます。瀬戸山って言うくらいなので丘陵地帯の上にあるのですが、平戸周辺の海からとれた貝殻を(信徒が)この丘の上まで大量に運んできたことを考えると、信仰の力ってすげー、とそのとき思いました。
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