四国遍路だと同行二人って言葉があります。てめえは一人ではないっていう意味で、またお大師さんと一緒、という意味です。歩きはじめたあたりでは「お大師さんと一緒」という言葉の意味が判ってなかったのですが、しばらくすると意味がわかりました。ほぼ普段着に近い状態で歩いてたにもかかわらずヤクルトとかコーラとか氷砂糖だとかみかんだとかあんぱんだとかいろいろいただいたり道を教えてもらったり握手を求められたりなんてことがあったんすけど、これが目に見えない「お大師さんと一緒に歩いてる」ということがなせる業でした。そういうふうに確実にみられてるのです。そうなってくるとお大師さんの影をなんとなくこちらも意識せざるを得ずお大師さんが居る以上、お行儀わるいこととかはもちろん、いろんな意味で悪いことはできません。そしてお大師さんと一緒ってことは、同時にいろんな質問もされます。煩悩は消えるのか?とか仏教的な質問から人間はなぜ惑うのか、とか、甘いものを好むのかとか、楽したがるのはなぜか、とか、全然関係ないけど隣地との境界争いの相談までされたこともあります。それまで精一杯学んだことをフル動員してこたえてきたつもりなんすけど、その質問は見ず知らずの私に対してと、向こうからすればよく知っているけど見えないお大師さんに対しての質問だったはずです。ですからマジで手を抜けませんでした。
たぶん私は四国でお大師さんの前に身を投げ出してるのと一緒だったわけっすけど、見られている・身を投げ出す、ということはひどく重いもののような気がしました。巡礼していた四国でもカソリックの人とお話させてもらえた長崎でも考えていたのですが、信仰とか帰依ということは実は、目には見えないけど仏様とか神様に身を投げ出し、常にそばで見られてることなんではないのか?なんてことをずっと考えています。
たぶん仏教の場合は信仰の前には性別はあまり関係ないですが。
つか、仏様とか神様に近づくってのがよくわからないっすけど、似たようなことかなーと思ってとりあえず書く。

↑お接待っていって、本場のみかんをこうやって提供してもらえるところもあってありがたかったり。
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