【葬儀の話】
「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、凡そはかなきものは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり。されば未だ万歳の人身を受けたりという事を聞かず。一生過ぎ易し。今に至りて、誰か百年の形体を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は、本の雫・末の露よりも繁しといえり。
されば、朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。既に無常の風来りぬれば、すなわち二の眼たちまちに閉じ、一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李の装を失いぬるときは、六親・眷属集りて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなり。されば、人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり」
「白骨の御文章」より
記憶に間違いなければ死に直面して広島の浄土真宗の人たちはこの文章に直面します。この文言を私は井伏鱒二の「黒い雨」で知りました。主人公はピカドンのあと最初は会社命令で葬儀を担当し社員の葬儀を執り行います。義務的だったけどそのうち自然とこの文章を読めるようになります。
で、末尾の念仏を唱えるべきである、という結語に納得がいくかどうかは人次第でしょう。一大事が何なのか、一大事がどうすれば解決できるのか、解決したらどうなるのか、という問題もあるかもですけど。
死をまじかにした人にこの何年か何人もあってきたのですが「自分は目の前の人のために何もしてあげられない」と思うことが多かったりします。そのとき、やはり祈るしかない気がします。で、その人が死に直面し周囲が悲しんでいる人がいるときも、そばでやはり祈るしかないよなー、と思うことが多くなりました。
大人になってからは葬儀ってのは祈りの場所だよなって思うことがおおいっす。
自分(id:gustav5)のことを語る
