『残酷な神が支配する』の敷居が異常に高くなっているのは、萩尾望都が、『風と木の詩』で竹宮惠子がめざしたように「わからないところが一切ないように、わからない人にも一切わかるように描く」ことをめざしたからだと思う。
実際『風木』が、セルジュの両親の話とかオーギュの過去の話とか、なくてもわかる人にはわかるのだけど、わざわざ省かず描いている。そしてその目的は上記のものであると竹宮惠子自身がどこかで書いてたと思う。
『残酷な〜』も、ほんとうは「死後」から描かれても十分分かる話だと思う。性虐待・性被害がどういうものなのかがわかってる人には。性被害に会ったことがある人には、「生前」の話は読めないと思うし、読まなくてもいいとも思う。あれは、死後、被害者でありかつ加害者でもあったイアン、自身は性被害から免れていたが、深く関係を持たざるをえなかった人間が、やはり対照的な形で被害者であり加害者であるジェレミーとどう対していくのか、がメインの話のように思うからだ。
ここまで書いてわたしが思い出すのは『ツイン・ピークス』で、あれは謎解きをメインとしてドラマが進んでいたから、殺害犯が誰だったかがわかったときのショックは、意外性はあったものの、本来受けるべき衝撃からはほど遠いといっていいほど薄れていた。それに気がついたのは映画版の『ローラ・パーマー最後の七日間』を見た時だ。映画館で見終わったあと、同居人と二人で「わたしらはわかってなかったね」と言いながら帰った。あの映画を、リンチがどういう動機で作ったかはわからないのだけど、少なくともわたしにはあれを見るまで、ローラの絶望がわからなかった。ローラの絶望をわかるためにはあの映画が必要だった。だからあの映画をわか
らない、説明になっていないという人には、わたしは異議をとなえる。
『残酷な神が支配する』は、そういう作りの話、わからないと言わせないための作りをあえて選んだ話なのだと思う。2部構成にしてもよかった話をそうせず、あえてどうしても時系列に沿って細部まで描いたこと、その手法を選んだことで、萩尾望都本人もかなりの影響を受けたのではないかという気がしている。
