この歳になると何度もガッカリした経験てあって、
「いやでも、ガッカリするのも私が勝手に思い入れて、勝手に裏切られたと思ってるんだよな 自分の感情には自分で責任持たなきゃな」というのを何度かやってきて
あとショック受けてもちゃんと回復はできる…も経験してきて
「何かに人生を、あるとき仮託すること、支えてもらうことがあっても、やっぱり主役は自分しかいない
誰もが『自分推し』に帰るんだ」の思いがあります
これがないと生きていけない! と思ってたもの たいてい失っても生きていけてる うまく言えないけど
(承前)
それは何か表現するわけじゃないファンでも、そうじゃないかなって 好きである自分を客観視する余白を持つ
私を見て、ファンではない人が、その対象についてどう思うか? と見回す視点
ファンアート描くような人間が何言ってんだ、と思われてしまうかもしれないけど
絵描くのって多少 対象と距離取らないと全体見えない 例えばデッサン狂いに気づけない
何かとんでもない物を描いてることを自覚できない というのがあって
ひと呼吸置く、離れてみる て大事なことだと思ってて
めも
ファンダムもこの今の世界の、社会の一部であって選ばれた特殊な集まりじゃ無いってこと忘れたくない
私も興味なんかない、どうでもよかったころ、好きになる前だったころが、あったこと
そしてこれから何かあればファンやめるかもな、やめるのも自分で決めて自由に出来ることだ
そういう「覚めた」部分を頭の中に持つこと
何かを熱心に布教されるとノルマというか重荷に感じて 逆に遠ざけてしまうタイプなので たまにポロッと「いいぞ…」が漏れ聞こえてくるくらいの方に興味持つ
何より「楽しんでる背中を見せる」だけなのが、じわじわだけど効果あると思った
年末が嫌い いつも落ちこみ
みんなが「〇〇をしました(掃除や行事、お出かけ等)」っていう報告をあげるたび 私は何もしてないと焦ったり
張り合うような気持ちで、「私も、××をしました!」って聞かれてないのに言ってみたり
あとから、なんて自己顕示欲が強いんだ、浅ましいなあ、と思ってしまう
理想と、実態のズレに落胆して、勝手に鬱になってると思う
他人から見てどうかではなく(周りは、いつも、頑張ってるじゃん〜? やれてるよ〜? て言うけど ダメです全然! て言い返してしまう、そんでワーーーッッてパニックになったり泣いたり)て 理想が原動力になるか重荷になるか
してること
朝、日光を浴びる
深呼吸
ストレッチ ←できないときもある
胸が締めつけられる感じずっとしてる 息が苦しい
体調が悪いのに それを改善しようという行動が起こせなくて、隠したり、我慢しちゃうのって
「大した事ないのに、大騒ぎしてる、と思われるんじゃないか」
「不摂生や怠慢のせい、自業自得って言われるんじゃないか」って、余計な事考えちゃうから
左足のケガの後も小さい段差で転んだり 頭をぶつけたり指を挟んだり 手で物をシッカリつかめず落したり 何度もやる
どれも「なんでそこで?」みたいな状況ばかりだし 不注意でしかないし 何かすることに何もかも自信なくしてる
大惨事にならないために何もしないほうがいいのかもしれない
クリスマスケーキ 娘がお小遣いを貯めて、コンビニで予約した推しデコケーキを買ってくれたので食べた
「いつもお世話になってるから 私の奢り!!」て 分けて家族で食べました 何も世話してないよ 私はダメな親だよ
マジで子ども 育てた覚えない 産んだだけ いつも誰かの手を借りていた なんも記憶がない イライラしたり怒鳴ったり ろくな接し方をしてない覚えしかない かわいがるのは他の人がやってくれた
なんかいつの間にか 上は来年成人だし 下はひとりで映画館に行くようになってた
我慢すべきか、ガツンと言うべきか……政治学的にはどう考える?『言いたいことが言えないひとの政治学』(岡田憲治著)
> 家庭でも職場でも地域社会でも、ふつうに生活しているだけで、私たちは他者との不和やトラブルに悩まされます。言いたいことは溜まるけど、そうそう言えないのが大人の世界……。はっきり主張したり発言したりできないのなら、黙って我慢するしかないのか。「そんなことはない!」と政治学者の岡田憲治さんは断言します。『言いたいことが言えないひとの政治学』(晶文社)より「はじめに」を抜粋してお届けします。
https://book.asahi.com/jinbun/article/15545981
韓国は、どれほど文化(エンタメ)を楽しめる環境が、政治体制に左右されるものか、というのを
ファンも表現者もキチンと理解してる、ということなのだろう
お茶の間やヒットチャートで慣れ親しんだ人たちがなくなるもいうことは
それに親しんでた私も、刻一刻と寿命に近づく ととらえてしまいます