真田丸
寧さんが「昔から変わっとらん、怖い人」と言い切ってたのは、この作品での秀吉の描き方を象徴してましたね。
改めて従来の「太閤記」イメージからの脱却が宣言されたような気がして、感慨深いものがありました。
信繁を庇いながら秀吉に厳しい態度で諫言する三成の姿はハイクでも好評でしたが、丸島先生のツイートによると、三成の直諫は実際にあったことのようです。一人酒を飲むシーンで「大一大万大吉」を見せたところも印象的でした。
落首事件の顛末は詳しく知らないんですが、本願寺が匿っていた「尾藤道休」って元黄母衣衆でいわゆる羽柴四天王の尾藤甚右衛…[全文を見る]
特別展のポスターにも使われた、名古屋市博物館蔵の「築城図屏風」
実物も展示されていたんですが、結構楽しげで気に入りました。どこの城か分からないそうですが、天下普請という当時の一大公共事業の雰囲気が伝わってくる感じがします。



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同じ旧西国街道沿い、すぐ近くにある野口神社にも寄りました。


由緒略記によると、元は奈良時代に建てられた寺院(通称「野口廃寺」)で、近くには野口城があったとのこと。
近世には山王五社宮(五社大明神、五社山神宮寺)として栄え、明治の神仏分離で日吉大社より大山咋神を勧請して主祭神とし、野口神社に改称。
説明によってはここを野口城跡としているものもありますし、教信寺の方も天台宗ですから、中世にはどちらも一緒で三木合戦当時は野口城と呼ばれていたのかもしれません。(教信寺の僧兵も別所側として参戦したそうです)
当時の野口城は加古川の河口付近の湿地帯にある堅城でしたが、江戸時代にはすでに城跡は開墾されていたそうです。
明石・加古川の続き。考古博物館での講演と多少の調べ物の後、加古川へ向かい、教信寺に立ち寄ってきました。
平安時代に「賀古の教信沙弥」と呼ばれた半僧半俗のお坊さんが極貧生活を過ごしたと伝わる場所です。「南無阿弥陀仏」と唱える念仏を始めたのもこの方からなんですって。本人は死に際して、遺骸を庵の側に捨てて鳥獣に施して欲しいと言い残したそうですが、庵の跡には廟所が建てられ、更にお寺ができたという流れのようです。
で、一連の三木合戦で最初の戦場となったのが野口城なんですが、それがこの辺にあったと推定されているそうです。
たまたま通りかかった…[全文を見る]
twitterから
>【新刊案内】山田康弘著『足利義稙-戦国に生きた大将軍-』(中世武士選書第33巻。定価2500円+税)が刷り上がってきました。書店様には今週末から徐々に並ぶ予定です。どうぞよろしくお願いいたします。
キタワァ.*・゜゚・*:.。..。.:*・゜(n‘∀‘)η゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*!!!!!☆
あ、早くブログ更新しないと…これ読んだらまたしばらく更新できなくなる。(多分、自分の妄想とか思い込みの誤りに気付かされたりするので…)
僕が高山右近をはじめ当時のキリシタンたちを快く思わないのは、信仰を理由に「異教徒」の偶像を破壊したり侮辱するのみならず、彼らの土地財産を奪い、何よりそれらの所業を賞賛すべき善行として本国に報告しているところです。
三好長慶や織田信長のキリスト教の受容は寛容と肯定的に評価されていて、実際に文化交流的な側面があったのも事実でしょうけど、今のところは彼らの見通しが甘かったからこそ、結果的に秀吉が禁教令を出すに至ったのだと考えています。
特に信長はその排他性と攻撃性を理由に法華宗を痛烈に批判して行動を改めるよう仕向けてますから、もしその統治が続いていたとすると、やはり同様の処置を取ったのではと思います。
現代のキリスト教がどうなのかは知りません。(当然あまり良い印象は持ってませんが…)
船上城本丸跡の近くにある寶蔵寺は木造毘沙門天を本尊とする真言宗大覚寺派の寺院ですが、高山右近が入城した際、僧侶達を追放した後、教会として使われたと伝えられています。
フロイス『日本史』によれば、秀吉は仏像を船で運びだして大坂へと逃れてきた僧侶達の懇願を無視し、右近の振る舞いを追認したようです。
明石では二千人がキリシタンに改宗したと伝えられ、その後、秀吉の方針転換により禁教令が出されるわけですが、一部は隠れて信仰を続けたようで、昭和になってその名残と見られる十字架が出土しています。



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ついでに、船上城本丸跡の現状が分かる角度から撮影してきました。



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船繋場があったという密蔵院あたり。

今はお寺の隣が墓地になっています。

隣には御崎神社。地図上の密蔵院の位置が正しいのであれば、ここで御崎という名前は変ですね。どこかから移設されてきたものでしょうか?

密蔵院は近世には明石藩の保護を受けて東播磨随一の大寺院だったそうですが、昭和20年7月の大空襲で全ての建物が焼失したとのこと。
この報徳大地蔵は昭和27年に戦没者慰霊のため建てられたものだそうです。
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海岸の公園(望海浜公園)に並ぶ松の木が名残なのかなぁ…と…。



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早速の2回目の訪問で、古城川の河口辺りを見てきました。

古城川…なんか、イメージとだいぶ違いました…。


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アメフト部の監督は、ただ、母が夜なべして作ってくれたチクワを皆に食べてもらいたいという一心で…
中崎公会堂にも初めて入りました。建てられたのは明治44年、こけら落としには夏目漱石が講演を行ったとか。今でも現役の公会堂なんですよ。



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なんか魚の棚商店街の保護者づら(?)してますが、数ヶ月ながら神戸市西区(ほぼ西明石)に住んでいたので、明石にはけっこう親近感があるのです。
当時、玉子焼の店巡りなんかもやりました。(ほーむぺーじで公開してた)
真田丸
「戦国ホームドラマ」と謳われた大河ドラマはいくつかあったけど、本作は単なる「戦国っぽい姿や言葉遣いで飾られたホームドラマ」ではなくて、戦国時代ならではのホームドラマを見せてくれるなぁと思いました。
どこで間違ったのかと問う昌幸に対して、即座に信幸が間違ってなどいないと力強く答えるシーンが印象的でした。このセリフを他の誰でもなく、信幸に言わせてくれたのが良かったですね。
開始前、家族で協力して戦国の荒波を乗り越えていく船のイメージで「真田丸」というタイトルにしたとか何とかって話を見て、不安を覚えたものですが。
豊臣家の人々を…[全文を見る]
連休が慌ただしく過ぎていき写真の整理が追いつかないいつものパターン。2回目の明石~加古川のこともあまり書けてない。
久しぶりに魚の棚商店街にも行ってきましたが、まあまあお客さん来ててちょっと安心しました。



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帰郷でちょっと暇ができた時、小屋の秘密箱の中身をチェックしています。

多分初めて甲府に行ったときに買ったもの。二十何年前やら?シミになってる…

これはポストカードですが…何時何処で何のために買ったものやら

新選組研究会のイベントで貰ったやつ
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幼少の頃からいつも目にしていたこの看板、壁が取り壊されるとともに、実家に払い下げられたみたいです。
これの後に追加されていた寛平忍者のシロアリ退治が並んでいたはずですが、そっちは処分されたのかな…。