鳥取には幼少の頃から縁があり史跡に訪れる機会が比較的多いのと、尼子氏、特に尼子経久に興味があったので、山名氏はその関係で知った程度でしたが、応仁の乱と赤松氏に興味を持ったので自然と山名氏についても学んでいきました。
ただ、この辺りは鳥取県史ブックレットの『織田vs毛利 ―鳥取をめぐる攻防―』と『尼子氏と戦国時代の鳥取』が主な情報源で、宗家の但馬山名氏については良い資料を持っていません。
後は法雲寺の史料館「山名蔵」で購入した会誌『山名』が何冊か手元にあるのと、鳥取市歴史博物館の企画展「The山名」の図録くらいです。
(この企画展に合わせ…[全文を見る]
亀井氏は尼子の家老を務めた家柄で、尼子経久の側近を務めた亀井能登守秀綱が有名です。
(毛利氏が尼子方だった時代、幸松丸の急死後の家督相続に介入して、大内方に逃げられてしまったという、微妙なエピソードで知られる人です。活動時期が明らかに長すぎるので、能登守2代の事跡が同一人物として扱われているようですが)
亀井能登守は毛利との戦いで永禄7年に弓ヶ浜で杉原盛重に討たれますが、男子がいなかったため、同じく尼子重臣の山中氏の次男で、秀綱の娘を正室とした山中幸盛(鹿介)が亀井氏を継ぐ予定でした。(亀井鹿介?)
しかし、結局は兄に代わって幸盛が…[全文を見る]

鹿野はちょっと海から離れていて、鉄道の駅も近くにはありません。
近代化から取り残されたためでしょうか、司馬遼太郎の「街道をゆく」には「人通りは、ない」そして「えもいえぬ気品をもった集落」と書かれている、そんな町です。

鹿野城は因幡と伯耆を結ぶ重要拠点で、織田と毛利の戦いでは毛利方因幡衆の人質が置かれていた城でしたが、天正8年の第1次因幡攻めで秀吉の攻撃によって陥落し、亀井茲矩が入城します。
鳥取城は厳重な包囲網を敷かれた上に人質まで盾にされ、城主の山名豊国は織田方に降伏したのですが、毛利から離反して抗戦していた伯耆羽衣石城の南条氏…[全文を見る]
鹿野には橋本牧場っていう美味しいジェラートのお店があります。「かろいち」にも出店していて車で鳥取に来た時はほぼ毎回食べてますが、本店に来たのは初めて。



こんな立地
墓所の鳥居のそばに建てられたこの墓碑が気になったんですが…


「田中十五代覚兵衛清原清次」
検索してみたところ「亀井茲矩年回忌関係資料」というPDFに当たりました。
http://www.rs.tottori-u.ac.jp/ibaraki/mudaaruki/hokokusho-2010/kamei.pdf
>>
ところで、ここに出てくる亀井茲矩の墓は現在の鳥取市気高町山宮、通称武蔵山にある。
山宮村の田中覚兵衛は、茲矩との由緒を持つ家であった。亀井茲矩の産業振興の一環で、茶山畑開墾の中心となった人物と思われる。
資料から明らかなように、年回忌の法要のときには、必ずこの田中覚兵衛を通じて鳥取藩も対応して…[全文を見る]
登っていきます。

小さい山ですがとにかく暑くて…。

明治十年?亀井茲明とありました。子孫の方でしょうか?検索したところ、子孫も子孫で津和野藩主家の第13代当主の方でした。津和野藩の西周の薫陶を受けて育ち洋学の道を進み、日清戦争には日本初の従軍カメラマンを務めたそうで、その写真集も発売されているようです。
この方の曾孫に当たるのが(元?)政治家の亀井久興氏ですね。亀井静香氏の方は茲矩の兄で帰農したという吉助の流れを称していて、遠い親戚に当たるようです。

亀井茲矩のお墓。周辺に民家の少ない場所ですが、定期的に整備されているようですね。
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土日はまた鳥取に行ってました。鹿野には何度か訪れてますが、今回は初めて亀井茲矩のお墓にお参りしてきました。

鹿野城からは少し外れた小さい山の上にあります。


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ありがとうございます。
僕もたまたま脇町に立ち寄った時に、町の基礎を三好長慶が築いたという説明を読んで、気になって検索したところ以下のページで武田上野介信顕について概要を知りました。
阿波学会研究紀要「脇城および岩倉城とその遺構の実測調査」
http://www.library.tokushima-ec.ed.jp/digital/webkiyou/19/1916.htm
こちらによると弘治2年3月に三好長慶の計らいで脇城主になったとありますが、事実であればその時期は将軍義輝が朽木にいますし、細川持隆も殺害した後ですから、三好政権における信虎の立ち位置や、今川氏との関係はどうだったのかなと気にな…[全文を見る]
ちょっと語弊がありました。引用文はメールソフト側の設定の問題ですね。Gmailに転送しているのですが、編集画面では引用文が折りたたまれた状態だったので気付かなかったという…。
はてなメッセージ経由のコメント通知メールに初めてメールで返信してみたんですが、あれって引用文も含めてそのままコメントへの返信としてズバーンって投稿されちゃうんですね。びっくりした…
はてなは基本オープンなので、個人的にメッセージを送る機能はないんじゃないでしょうか。
僕も正直はてなのサービス自体にそれほど詳しくないので、はっきりと分かりませんが…。
自力で見つけるつもりだったけど、なんとなく検索してみたら…
レファレンス協同データベースの質問より
「伏見稲荷大社の末社である金玉神社の位置を境内地図で確認したい。地図の年代はいつでもよい。」
http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000101550
末社ではなくてお塚、というツッコミはおいといて。
金玉大神…荒神峯34、荒神峯91、荒神峯152、根上り松、あらき51、豊川72、青木滝10
金玉大明神…二ノ峯25、二ノ峯53、二ノ峯63
今回のは荒神峯34、二ノ峯25、二ノ峯53のやつです。初発見で興奮してデジカメを落としてしまった時のはおそらく…[全文を見る]
今回の稲荷山金玉巡拝



登った時間が遅かったので、今回は新規発見なし…
久々の新着、丹波市柏原にて。


ブルーグレーっていうんでしょうか、この釉薬は石州瓦ではあまり見られない色ですね。
もっとも、九州の例にも見られるように大黒さんの鬼瓦は石州瓦特有というわけではない感じなので、よく分かりませんが…。

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こういう研究者の方が集まる会に参加したのは、この時の「平安京・京都研究集会」が初めてです。
3年ほど前から歴史博物館の展示に合わせた講演を狙って聞きに行くようになったんですが、そのうち一般向けの講演では物足りなく感じるようになりまして…。
僕自身はまだまだ先達の知見に学びつつ咀嚼している最中ですが、それでも最新の研究成果が一般の歴史愛好家に届くまでに大きな隔たりというか断絶みたいなものを感じていて、そんな中でもより深く興味を持った方に何か感じていただければとの思いもあって、考えたことをここに書いたり、ブログにまとめたりしています。
伏見稲荷本宮祭にて、ほぼ同じ構図の写真撮ってて笑った

2015年

2013年
今年の写真はまだ全部アップロードできてないです。
ちょいと播磨~但馬~丹波と廻ってきました

どうしてこうなった

肖像画の平野國臣
弘治年間に武田信虎の子(信顕)が三好氏に取り立てられたという伝承があることから、早くから三好氏は今川・武田と誼を結んでいたのではと思ってましたが、信濃を守護の小笠原氏へ返還するのが長慶の意向だったとすると、むしろ武田とは敵対することになりますね。
将軍から各地の大名への和睦斡旋や上洛要請は、三好氏の圧迫に対抗して自らの権威を高めようとしたものと解釈されてますが、少なくとも小笠原氏の復帰を目指した一連の動きについては、両者の意向が一致していたのは間違いないでしょう。
そう考えると、将軍を迎え入れてからの義輝と長慶の関係は、後の義昭…[全文を見る]