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florentine(磯崎愛)のことを語る

もうほんとに息が苦しいから書く。
小学生でサルトルの『聖ジュネ』よんだってはなすと、世の中のたいていのひとは「よく読めましたね」とか「ほんとにわかったんですか?」とか「早熟だったのね」的反応をしてくださるんですが。
でも、あるていど文字さえ読めれば辞書ひけるし、つまりは全然ふつーにどんなものだって幼くても読める。内容は、オトナになった今だってむつかしいものはむつかしいし、わかるとかわかんないとかいう質問の意味自体不明だし(いったい誰が、「ぼくなんかのために、じぶんのありったけの言葉を使い尽くさなくたって」(不正確な引用っす)とジュネが呆れたあの本をすみからすみまでワカルんですか?)や、早熟なのはソウジュクだったんだろうけど(否定はすまい)、でも、わたしにはどうしてもそういうものが必要で、なければ生きてられなかったし、みながみな、綺麗で美しい世界を望み夢見るものではないという、ただそれだけのことが届かないのだな、と思うと切なさ無限大っすよ。
そしてまた、そういう「清らかな世界(笑)」から弾き飛ばされてしまったときの、誰にもいえない、いいようのない孤独感を埋めるものとして、どうしたってそういうものはあって欲しい。なんどでもくりかえす。わたしにはどうしてもそれが「必要」だ。
さらにはサドが再発見&ほんとに評価されたのは、ナチの興隆が契機でもあったはず(シャンタル・トマ『サド侯爵』三交社)。
それに、わたしは小心者で根性なしだから、じぶんがケームショいれられてゴーモンとかされたくないし、ましてや誰かを売り飛ばしたりしたくないから表現規制に反対なんです! だってわたし、じぶんが助かりたいからってそういうことしちゃったらどうしようって思うくらい弱虫なんだもん。でもってそんなことしたって助からないんだな、これが!!(←『1984年』脳の恐怖w)

(ひとによってはこんなふうに考えるわたしって飛躍しすぎって思うかもしれないけど。大学の先生がアカ狩りでゴーモンされたことがあるって噂だったし。そういう気骨のあるひとにサルトル講読教わって、そんな怖いことがたったの何十年か前のはなしで、戦争があって検閲があってっていう時代がホントにあって、確かによくは知らないけど、それでもなにかは理解できるんだもん。そういう端正な佇まいだったんだもん! て、ものすごく馬鹿でナイーヴ(素朴)すぎる書き方しちゃうけど。でも、ゴーモンだよ、ゴーモン! それこそほんとに「フィクション」じゃないんですよ? でも、そうまでしてでも守らないといけないことだとアタマでは思うけど)
(「文学者」って「芸術家」って、そういうのに対抗するイキモノでしょ? わたしの尊敬する、愛する作家たちってちゃんとそういうひとたちなんだもの。でもわたし、そこまでできるかわかんないから、ていうか絶対無理だから!(ムリだよ!!!)、そういう目に追い込まれたくない。そんなとこで勇気ためされたり覚悟せまられたりしたくないの。 なんか、ちゃんとした論理とかじゃなくて申し訳ないんだけど、でも、切実に、ほんとうに切実にそう思うの。ポーランドはじめ東欧生まれの作家たちの文章よんだり映画みたりすると、あんなしんどい環境で、だからこそ物凄い作品ができあがるんだっていう面も勿論あるとは思うけどさ、でもでも、それってムチャクチャ無責任ていうかお気楽で他人事な感想で、本人はだって、そこで「生きて」「作る」わけだから。わたし、ソレ考えるとマジで気が遠くなるのだ。ほんとに)
   

「詩とは懐疑であり、イデオロギーとは懐疑の欠落である」ダニロ・キシュ