子供のような真っ黒な目を向けて
「もうすぐ痛いのがとれるよ」
という妻の言葉にすがるようにうなづく。
痛みは取れず、激痛に七転八倒し、ベッドから床にへたり込んで呻く。
こんな思いをさせないために転院したのに、わたしは無力だ。
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家族今日のダンナのことを語る
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今日は結婚してからはじめて愛しているとも好きだともかわいいともいわれなかった。
「はてこさん、ここに座って」
と隣を指したが、それは愛しさからではなく、ベッドの位置をかえたいためだった。
二人で写った写真の数々を見て泣く妻の横で、もちおは気味悪そうにぼんやりしていた。
現実は愛しているよで終わる物語ばかりではない。
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丑三つ時のホスピスで姿勢が定まらずああでもない、こうでもないと動き回る。
気を逸らそうと忌野清志郎の「毎日がブランニューデー」をYouTubeで流したら立ち上がって踊っていた。
もちおと踊るのはいつも楽しい。
まだこんなお楽しみが残っていたとは。
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妻が隣で泣きながらスマホをトントンしているので、トロンとした半開きの目のまま驚いて、グラグラする腕で身体を支えて起き上がり、腕の中の妻の顔を半目でのぞき込む。
「もっちゃんを危ない目に遭わせてはてこは悔しいんだよ」
泣きじゃくる妻を必死でなだめようと言葉にならない息を吐く。
わたしはもちおがやせ細ってしまって
桂歌丸から飢餓難民みたいになり
三白眼でテリー伊藤みたいに焦点があわなくなり
ホラー映画の怪物みたいなぎこちない動きをするようになって
その姿があまりに強烈で
いつか元気だったもちおを忘れてしまうんじゃないかと不安だった
でもい…[全文を見る]
家族今日のダンナのことを語る
いいこともあったって忘れないでね
というもちおの声が運転中に頭の中に閃いて、「どうしてなんだ」と思わずにいられなくて泣けた。
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緩和ケアへ入る前の最後の入院のときのこと
深夜に病室から電話をかけてきて長話をした。
「今度もちおから電話が来たら録音しようと思っていたのに忘れちゃってたよ)
「また今度したらええ。また今度できるそいや」
二人とも泣きながらまたねといって切った。
もちおはいま隣で息をしているけれど、もう電話をかけることはできない。
いろんなことが知らないうちに最後になる。
おしまいだらけの夏だ。
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クソ医者がわたしに無断で薬を増やした直後、まだ薬が利き始める前に、はてこ妹がQooを買ってきた。
もちおはハッと顔をあげ、しっかりした声で「本当に?!やったー!!はてこさーーん!」と言いながらガッツポーズをとった。
「妹子が買ってきたのにごめんね!はねこさん、氷だして!コップも!ベッド下げて!よし、ストップ!」
もちおはQooをひとくち飲み、満面の笑みを浮かべ、二口目を飲もうとしたところで糸の切れた人形のようにガクンとうなだれた。
いま振り返れば明確な意志の疎通とそこから続くリアクションが出来たのはこのときが最後だった。
クソ医者殺したい。
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「もっちゃん、わたし誰だと思う?」
「さいしょのばしょにいたひと」
「え?」
「さいしょのばしょにいたひと」
「最初の場所にいた人?」
胸にずしんと重い痛みが走った。
「みやさんは、さいしょのばしょにいたひと。こっちへきて」
熱のこもった痩せ細った腕で抱きしめてくれたもちおの胸にはかつての厚い胸板はなく、かわりに痛々しく浮き出た肋骨がある。
けれどもたどたどしい「だいすきだよ、あいしてる」は相変わらずもちおの愛情にあふれていた。
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クソ医者がわたしの留守に黙ってもちおの薬を増やしていた。
転院前日のこと。
もう言葉が上手く通じない。
医者を殺してやりたい。
家族今日の夫のことを語る
「今読んでいる本でおもしろいところがあったの。どうしてもそこんところを言いたいから聞いてくれる? 宇宙船に乗ってて、ある人物がコンピュータに『お茶ちょうだい』って命令したらすごいまずいのが出てきたの。そんで『お前悪食かよ』とか『お茶の歴史を教えてやる』とか叱りつけたら、コンピュータがすべての業務を停止して、お茶について学び始めちゃったのね。そうこうしているうちに、なんかしらん、攻撃され始めちゃって、他の乗員が『おいおいおいなんでうちのコンピュータは沈黙してんだ』つうたもんで、さっきの人が『これこれこういうわけで今お茶の勉強をしているからしばらく動けない』つうたら、なんと、攻撃の最中に降霊会が始まったの。何かっていうと、祖先を呼び出して対応法を聞こうってのよ。あははは、はははははは」
と私が言ったときの夫の悲しそうな、不思議なものを見るような目が印象的でした。
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書ききれないほどいろいろあった。
全部覚えておけたらいいのに。
とりあえずいままだ息をしています。
天命をまっとうできますように。
初心に帰ってソファで眠るよ。
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転院先のパンフレットから次の担当医の顔写真を見る。
「イケメンかあ…いけすかねぇな」
はたして担当医は転院説明の場に付き添ってくれたはてこ妹に釘付けで、無駄に話を長引かせたのであった。
こんな小さな顔写真からよく本質を見抜きましたね。
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「もう何もしたくない。入れるのも、吐くのも」
どうしたい?と聞かれることが苦になってきた。
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姑に付き添いを頼んで家で数時間用事を済ませ、戻ってきたら目をしっかりとあわせてにっこり笑ってくれた。
「もっちゃん、さっきはてこを見て笑ってくれてうれしかった」
「はてこがおってくれてうれしいよ」
数年ぶりに大好きなハーゲンダッツのマカデミアアイスクリームを一匙舐めた。
身体を拭いて着替える。
頼まれていた書類を提出したことを伝える。
「これで、用はすんだ」
「はてこの用がすんでないよ」
「はてこさん、大好きよ。何度でも」
「痛くて苦しいからさ、用がすんだら、もう早くいってしまいたい」
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血反吐用洗面器の前で蕭然と座っている。
もうかすれ声しか出せない。
「もっちゃん、こっちみて」
への字口でキョロっと目だけ上げる。
「見てほしかっただけ」
まばたきで頷く。
視線を落とし、間をおいて、またキョロっと目を合わせる。
見る影もないほど骨と皮になってしまったけれど、魂はあのおどけたもちおのままだった。
どんなに楽しい日々だったか。
どんなに面白おかしいことばかりしてきたことか。
どれほどもちおに笑わせてもらったことか。
家族今日のダンナのことを語る
「選ぶ楽しみを味わってみたい」
入院してはじめて部屋から出て、病棟の暗い廊下を点滴台ガラガラさせながら歩き、自販機でジュースを買った。
さっき歯磨きしただろ。
家族今日のダンナのことを語る
深夜、簡易ベッドに横たわる寝不足の妻に。
「こらから歯磨きするけど、ちょっとQoo買ってきてくれる?」
まぶたが腫れ上がるほど泣いても、こういうときは「おまえな、」と思う。
家族今日のダンナのことを語る
こんなことになると思わんかったんよ
もちおが馬鹿やった
俺は本当に馬鹿やった
はてこさん、ごめんな
本当にごめんな
家族今日のダンナのことを語る
「はてこさん、しあわせになってな
こんなことになってごめんけど、おれ、はてこさんはしあわせになってほしい」
「あんた無理いうね」
「うん、悪いけど、しあわせになって」
しあわせってなんだろね。
これまでこんなにしあわせだったのに、この先どうやってしあわせになれるんかな。
家族今日のダンナのことを語る
「はてこさんがおばあちゃんになるの、見たいなあ…
おれ、はてこさんはぜったいかわいいおばあちゃんになると思っとったもん」
こら何としても長生きしておばあちゃんにならないけんな。